クリスチャンバプテスト教会
Christian Baptist Church
クリスチャンバプテスト教会

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のあるものは聞きなさい。」
2025年4月20日
「一番聞きたかったことば」 ヨハネ20章1-29節
「平安があなたがたにあるように。」19節
空っぽの墓も駆けつけたペテロ、ヨハネには「だれかが主を取って行った」ことにしか思えませんでした。そして復活したイエス様を目の当たりにしてその声を聞いて会話までしているのに、マリヤはその男性が愛する主であるとまったく気付けません。そんな彼女にイエス様は「マリヤ」と言いました。聞き覚えのあるその声に彼女の目は開かれます。私がイエス様はよみがえったと信じられたのは、きっと主ご自身が私をあわれんで「声」をかけてくださったからに違いありません。証拠や理屈ではなかったのです。ただただ主の恵みとあわれみのゆえです。
復活したイエス様はその日の夕方、ユダヤ人を恐れてかぎを堅くおろしていた弟子たちの部屋に来られ、「平安があなたがたにあるように」と言って下さいました。一番聞きたかったことばを会いたかったお方から聞けること以上に、幸せなことはありません。私たちは復活したイエス様に何を求めているでしょうか。問題や悩み事を解決してくれることでしょうか。でも本当は問題や悩みの中にあってさえ「これでいい」と思える、そんな平安を持てたらどんなに幸いでしょう。救いは「慰め」です。
そんな弟子たちの中で一人だけ「私は信じません」と言い張る者がいました、トマスです。それから一週間が過ぎるころ、再びイエス様がこの部屋に来ました。そしてトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言って下さいました。「証拠がないからとか自分で確かめられないから信じない」と言わないで、そのまま「信じさせていただけるまで待っていなさい」と私には聞こえます。自分のペース、自分の要求通りででなくてもいい、主が私をあわれんで復活の信仰を下さればそれでいい、このくらいの大らかさが必要です。
信じる、それは見えたから証拠があるから、うまく説明できるから信じるのではありません。見ずに信じる、たとえ思い通りにならなくても、信じていることの幸いをもっと大切にしたいものです。復活したイエス様が弟子たちに最初に言った「平安があるように」ということの祝福を感じましょう。パウロは信じた者はイエス様とともに復活したと言っています。信仰者の復活は聖書の教理だけではありません。私たちは死んでも生きるのです。「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」とダビデは書き残しました。どうかこの世にあっても、みことばで復活する私たちであり続けましょう。
2025年4月13日
「彼らをお赦しください」ルカ23章26-43節
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 1ペテロ2:24
パリサイ人や律法学者たちが罪に定めようとする中で、イエス様は一言も自分を弁護なさいませんでした。加えて総督のピラトもさまざまな証拠をさぐりましたが、イエス様には一つの罪も見当たりません。彼はイエス様を釈放しようとまでしたのです。まるでイエス様ご自身が十字架刑に処せられることを望んでいるかのように感じます。
この何時間か前、イエス様は弟子たちとゲッセマネと呼ばれる園で祈っていました。「父よ。この杯をわたしから去らせてください。けれどわたしの願いではなく、あなたの思うとおりになさってください」と告白しました。イエス様は私たちと同じように試みを受けられたのです。それは悩みと苦しみの極地でした。この苦しみを通してイエス様は、私たちがこの世で困難を味わうときにも同情し共感し寄り添ってくださるお方となられたのです。そして主は父のみこころにままにと立ちあがって、ご自身をはずかしめる者たちの手に捕らえられたのです。
自分が何をしているのか分からない時、人はこんなにも残酷になれるのですね。恐ろしいというよりも悲しいほどです。私たちはいつも自分の思う側からしか物事を考えられません。つい前日まで「主よ、主よ」と言って慕っていた人々が、手のひらを反すように「十字架につけろ」と叫んでいます。私は自分のしていることが分かっているのかと思います。でも分かるはずがありません。それが罪人だから…そして続けてイエス様はこう祈りました。「父よ、彼らをお赦しください」。
救い主イエス・キリストと呼ばれてています。救いとは赦しとは何でしょう。貧しさからの脱出か?苦痛からの癒しか?悩み絶望からの開放か?いいえ、違います。救いとはさまよっていた者が、その創造主のもとに帰ることです。その主のふところに帰るのは「こんな私が赦されるのですか」と真実に言える者です。正しい者、親切な人、ご立派な宗教家や偉人が救われるのではありません。ただ「こんな私でも赦されるのですか」と主の前に言えるかどうかです。
救い主イエス・キリストの救いって何でしょうか。極端なことを言えば、この犯罪人は十字架から降ろしてもらうことはかないませんでした。でも「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と主に言われました。イエスの救いは「それでもともに」という寄り添いです。羊のようにさまよっていた私たちが、自分のたましいの牧者である方のもとに帰ることです。さあ、あなたも赦されませんか。あなたはあなたであっていいと受け入れてくれる父と御子イエスの救いを受け入れませんか。
2025年4月6日
「何度まで赦すべきでしょうか」 マタイ18章21-35節
互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 コロサイ3:13
何度まで赦すべきでしょうかと聞いたペテロにイエス様は「七度を七十倍するまで」とお答えになりました。でもイエス様は490回でいい、と言っているのではありません。数えてはいけないのです。相手を赦してやったと思うことの危険を感じます。赦す、それは相手にしないことではありません。赦すことは、相手を罪に問わないことでもありません。私たちは赦し合わなければ、生きていけないのです。自分が誰かを赦すと同じくらい、実は自分も誰かに赦してもらっています。赦せる人は、聖いから赦せるのではありません。自分が赦されていると感じている人が、他の人を赦せるのです。
「主があなたがたを赦したように」と言われています。大切なのは、みながイエス様に赦されている存在だという大いなる真理です。主イエスがお赦しになった人を、同じ罪人の私が赦さないのはどうかしています。私が赦されているように、あの人も赦されているのです。互いに関わり合い、労苦しながら生きている者同士です。不満が心に湧きあがったら「主があなたがたを赦してくださったように」ということばを思い出しましょう。
私を罪に定めよう、赦そうとしないのは自分ではないかと感じるのです。またこんな失敗をした、何度同じ過ちや罪を犯すのか、あの時、何であんなことをしてしまったのか…そんな後悔や自己嫌悪に苦しむ私たちです。いいですか、みことばを聞きましょう。「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです」。誰ももうあなたを罪に定めることのできる者はいません。どんなに自分を自分が責めても、イエス様は何度でも父に「この人がもう自分を責めないでいいように」ととりなし続けておられます。だからどうかもう、自分を責めないで、主が赦してくださったようにご自分を赦してあげませんか。それでいいのです。大丈夫です。
2025年3月30日
「あわれんでください」 ルカ18章35-19章10節
彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。 38節
私たちの人生には誰しも「あの時、あの出来事以来」という大きな節目と言えるようなものがあると思います。それが嬉しいことであっても、逆に苦い経験であることもあるでしょう。今日の聖書箇所に出て来るふたりの人にとって「この時以来」と言っても過言ではない一日になりました。
盲人の男性は、この日も道ばたにすわって物乞いをしていました。そんな彼の耳に「イエスがお通りになる」という話が聞こえます。それを聞くと「私をあわれんでください」と大声で叫び立てたのです。人に物乞いをすることは、ねだることです。生きるためには何だってする、見栄も外聞もありません。でも今日の彼は違っていました。「あわれんでください」という叫びは、人として生きていきたいという彼の心の底から出て来たものだっと思います。「イエスという人に会いたい」という声が、イエス様に届きます。
「あなたの信仰があなたを直した」これは直訳すると「あなたの信仰があなたを救った」ということらしいです。ではこの盲人の信仰って何だったのでしょうか。そして私の信仰は何だろうと問われた気がします。「私をあわれんでください」という、この気持ち願いが彼の信仰だったと思います。その信仰は、自分の境遇や立場を痛いほどに知らされている者にしか持ち得ないものだと思います。健康で普通の暮らしが出来ている人やそのように生きられる時には想像もできない気持ちです。「あわれんでください」それは人として最後の望みをかける時に発せられるものでしょう。
取税人ザアカイはこの日イエス様に初めて会いました。ザアカイに主は「きょうはあなたの家に泊まることにしている」と言いました。ザアカイは何の躊躇もなしにイエス様たちを大喜びで迎えたのです。彼の家の中にはだまし取った金品がたくさんあったに違いありません。ザアカイはその恥のすべてをイエス様に見せたのです。家に迎えるとはありのままの自分をお見せするということに他なりません。そしてザアカイは主にいままでの罪を償いたいと言いました。ザアカイは新しい生き方をしたいと思ったのでしょう。それを聞いたイエス様はこう言いました。「きょう、救いがこの家に来ました」。正直に言いますが、私はこのザアカイのように新しく生きたいと願っているだろうか。見えるようになった人のように「私をあわれんでください」と願っているだろうかと省みます。それは決して救わていないからというのでなく、救われているからこそです。天の故郷から救い主イエス様が私たちを迎えに来る時が近づいてきている気がします。その時に備えませんか。
2025年3月23日
「いっしょに喜んでください」 ルカ15章
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 7節
イエス様と民衆とのかかわり方を見ていた当時の宗教家たちのは信じられませんでした。それはイエス様が取税人、罪人たちと喜んで食事をし楽しそうにしていたからです。神さまは「いっしょに喜んでください」というメッセージを私たちに届けてくださっています。
クリスチャンである皆さんは、この一匹を捜し出し方にかついで大喜びする羊飼いは、イエス様であることを知っています。罪人を救うためにこられ、贖いの死を遂げて三日目に復活したイエス様です。その思いの中に、「喜び」があったのです。もちろん主の十字架は聖い御業にちがいありません、でも忘れてはいけないのは、喜びのゆえに十字架を忍ばれたというメッセージです。(へブル12:2)
罪人が悔い改める、それは反省して良い行いで埋め合わせをするものではありません。悔い改める、それは罪を犯したことが分かっても、変わらず子でいてもいいんだと納得することです。たとえの中の弟息子と父親とのやり取りは私たちにそのことを語っていると思います。私たちが信じて救われる時だけでなく、神の子どもになってから罪を犯して帰れなくなった時も、どうか悔い改めましょう。私たちの思いと、天の父の思いは天と地以上に違っています。帰ってもいいのです。
弟息子が一匹であったように、兄もいなくなった一匹なのです。家出して放蕩する一匹もいれば、家にいて不満を秘めている一匹もいます。でも両方、羊飼いが探し求めて見つかるまで捜し続けてくれる「失われた一匹なのです。言いかえれば、私たちみなが一匹なのです。救われた後でも、私たちはいなくなった一匹です。兄は不満でした。馬鹿げた弟を迎え入れた父に対して大きな不満をぶちまけます。「あなたとともにいても何も楽しくはなかった」「それなのになぜ弟にはこんな良くするか」。その時、信じられないことばを聞きます。「私のものは、全部おまえのものだ」と父は言いました。きっと兄は悔い改めたに違いありません。そして喜びの輪の中に入って行ったのではないでしょうか。羊飼いは喜びのために迷った一匹の羊を捜し、見つけられた羊同士も互いのことを受け入れ合って喜び合えたらどんなに幸いでしょう。
2025年3月16日
「あなたを罪に定めない。行きなさい。」 ヨハネ8章1-11節
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
人は他者の罪を裁くことで自分の正しさを主張します。でもイエス様にとってその人の罪は裁くための理由ではなく、赦すためのものでした。この朝、人々の前に、捕まえられてきたのは姦淫の現場で捕らえられた女性でした。そして「モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています」と叫びました。みなの目がイエス様に注がれていました。
イエス様は静かにでもはっきりとみなに聞こえるように言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。今、律法をお授けになった方ご自身が真の意味を述べたのです。イエス様は人々に対して「あなたがたは石を投げてこの女性を裁けないはずです」ということを諭したのです。言いかえれば「あなたがたもこの女性と同じように罪ある者ではありませんか」と問うたわけです。
イエス様は次にこの女性に問います。「あなたを罪に定める者はいなかったのですか」と。その場にはイエス様とこの女性しかいません。民衆が女性を罪に定められなかったのは、自分の罪を主の律法によって示されたからです。ふたりだけになること、イエス様が最初から願ったことでした。私たちは他の人がいる場では素直に自分の罪を認められない者です。「あの人も同じではないか」「私よりあの人の方がもっと悪い」とか言って…。
人はこの女性を罪に定めることはできませんでしたが、唯一このお方だけが「あなたを罪に定める」と宣言できるのに、何とその口から出たのは意外なものでした。「わたしもあなたを罪に定めない」、私には「あなたを罪に定めたくない、生きていきなさい」と言ってくれているように聞こえるのです。そしてイエス様はこの女性に「今からは決して罪を犯してはなりません」と言って下さったのです。このみことばこそ、救い主が赦された者に恵まれるものではないでしょうか。
2025年3月9日
「引き離すことはできません」 ローマ8章31-39節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
使徒パウロを通して神さまは、信じて救われ私たちに知ってほしいことがあると強調しています。救われた私たちは、神を愛する者になっていくのです。赦された罪人に過ぎない私たちが神を愛するとは、どういうことなのでしょう。
それは「神はすべてのことを働かせて益として下さるお方だ」という福音を味わって納得する者になっていくことです。もちろん神のなさることのすべてを私たちが理解することなど決してできるはずはありません。説明できなくても経験でこのみことばが真実であることを私たちは知っていくのです。
「だれが私たちに敵対できるでしょう」とパウロは言いました。そもそも神さまが私たちの味方で、誰も敵対できないということはどういうことでしょう。少なくとも私たちが期待することのすべてがかなえられるという意味ではないことはわかります。そうではなくて、私たちが神を愛する者になっていくことを妨げることのできるものは、いないということではないでしょうか。ヨブがあんな苦しみにあったこと、サタンが願ったことでさえ聞かれてもなお、そのことを通してヨブは今までよりも主を愛する者になっていきました。それをパウロは「恵んでくださる」と言い表しました。恵まれるとは人が望んだものを手にするのではなく、神がその人に望んで備えていたものを神ご自身の意志と主権でお与えになるということです。
最後の問いかけを聞きましょう。「あなたをキリストの愛から引き離すのはだれですか」。こう言いかえてみましょう。「神がすべてのことを働かせて益としていると、あなたは信じられますか」「神は私の味方だと信じられますか」。もし今、私たちがそう信じられないのなら、みことばに従ってみることです。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引きはなすことのできるものは決してない」。「こうしてください、ああしてください」と言う祈りから開放されて「このことが私にとって益となると信じさせてください」と謙虚に祈りましょう。どうかその先にある恵みに出会えますように。
2025年3月2日
「感謝の心を持つ人になりなさい」コロサイ3章12-17節
互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさいと神さまは言っています。これらの大切なものは、きっと「赦し合う」ことで身についていくと信じます。言いかえれば、赦し合うことが出来なければ何も身につかないと思えます。それも相手にこうなて欲しい、あの人がこうなればと相手が変わることを期待するのではなく、自分自身が身につけることの大切さを思います。
私なんてイエス様にようには人を赦さたり出来るはずがない、誰もがきっとそう思います。けれど神さまは出来ないことをお命じになるはずはないのです。確かに自分一人の力では不可能です、けれど信じる者には御霊の助けがあり、そして信じる仲間、友がいるのです。言い方を替えれば、私たちは赦し合うためにともにいるのかもしれません。皆どこかに過ちや欠点、弱さと言った負の側面を持っています。そんな者たちをイエス様は召しくださったのです。だから赦し合えるのです。完全な者しかいなければ、そこには赦し合う必要もありませんが、深い同情も慈愛も謙遜も柔和も寛容も生れないでしょう。それは冷たい世界です。
私はヨハネ13章のイエス様を思い出しました。ご自分の愛を残るところなく示めそうと、主は弟子たちの汚れた足を洗うために手ぬぐいを身につけたのです。そして「このわたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と仰せになりました。愛することは、赦すことだったのです。
最後の晩餐を食べている時でも、弟子たちは「誰が一番偉いか」と口論していました。きっと互いに不満をかかえ、いらだっていたに違いありません。人はこのようなものなのです。そんな時、こともあろうか主であり師である方が、最も卑しい役目を自らかってでたのです。「誰が一番偉い」なんていうことは、もうどうでもよくなっていました。足を現われながら彼らは、自らを恥じていたと思うのです。もしイエス様の御手が手ぬぐいをもって私たちの足をきれいに拭いているとしたら…私たちは救われました。それはきっと互いに赦し合って生きていくためです。そのことを忘れてはいけないと強く思わされます。
2025年2月23日
「今はついて来ることができません」ヨハネ13章31-38節
「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
とても緊張した場面です。イエス様は弟子たちを前に静かに話されました。彼らのうちの一人がご自分を裏切ることを公にしたのです。続けてイエス様は「わたしはしばらくの間、いっしょにいるが、いなくなる」「そしてあなたがたは捜すでしょう」と仰せられました。「わたしが行く所へは来ることができない」とまで言われました。聞いていた弟子たちの動揺は大変なものだったに違いありません。
「イエス様がいなくなった後、自分たちは何者なのだろう」と思ったはずです。主は続けてこう言われました。「あなたがたがわたしの弟子だいう証しは、互いに愛し合っていること」だと。権威でも知識でもなく、互いに愛し合っている、それもイエス様ご自身が彼らを愛したようにです。そうです、この日弟子たちの足を洗ったように。
「あなたは今はついて来ることができません」でもイエス様はペテロに続けて言われました。「しかし、あなたは後にはついて来ます」。ついて行けない時もあるのです。ペテロは「なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、私はいのちも捨てます」と言いました。ペテロは必死でしたが、自分がついて行けなくても、そのことに納得しなければなりませんでした。私たちも忘れないようにします。
そんなペテロにイエス様は「あなたはいのちを捨てると言いながら、三度わたしを知らないと言います」と仰せになりました。驚きのことばです。ペテロは人生の中で最もつらい経験をすることになります。決して「今はついて行けない。でもいつかついて行く時がくるならそれでいいことにしよう」という軽いものではないはずです。ついて行けない、いいえ、ついて行かない自分の弱さを知らされるところをペテロは通されます。それこそ「三度わたしを知らないあなたは言う」とイエス様が彼に言ったことです。その先に「しかし、後になるとついて来ます」とう時が備えられているのではないでしょうか。ペテロが三度主を否んだ時、彼を見つめるイエス様と目があい、泣いたと記されています。そんな経験こそ、救われた私たちみんなに必要なことだと語りかけているようです。
2025年2月16日
【先週のメッセージより】
「主よ。もし、あなたでしたら」 マタイ14章1-33節
ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
私たちを動かしているものは一体何でしょうか。内側の思いが私たちを動かしていると思います。ここに出て来る国主ヘロデを動かしているのは、人々への恐れや人々の手前もあったと書かれています。私たちは神を信じる者として「神さまが喜ばれることは何か」という思いで動かされたいと思います。
イエス様は多くの人たちが集まってきている光景を見て、彼らを深くあわれんで下さいました。イエス様を動かしているのは、人々へのあわれみの心でした。
夕方にったので弟子たちは提案します。「自分たちで腹をみたすように人々を解散させてください」。でもイエス様は「あなたがたで、あの人たちに食べる物を上げなさい」と言います。弟子たちは「パンが五つと魚が二匹よりほかありません」と答えます。必要に比べ、差し出せる物があまりにも少な過ぎますというのが彼らの思いです。
「空の鳥、野のゆりを見てごらん。あなたがたの天の父がこれらを養っている。ましてあなたがたに良くしてくださらないことがあるだろうか」と言われたイエス様。今ここで、イエス様はたった五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて感謝して下さったのです。何の希望もないように見えるところでも、主がおられれば希望があります。イエス様はそれらを裂いて弟子たちの手に渡しました。そして弟子たちは人々に配ったのです。
この後、イエス様は弟子たちを先に舟に乗り込ませて、ご自身は祈るために山に上りました。その後、弟子たちの所へ行くために強風の中を湖の上を歩いて来たのです。幽霊だと叫び出す弟子たちに、主は「わたしだ。恐れることはない」と言いました。彼らにこの時、信仰があったら、33節の「確かにあなたは神の子です」という結末になったと思いますが、実はそうではなかったのです。ペテロは「主よ。もしあなたでしたら、私に水の上を歩くように命じてくださいと」と言い、水の上を歩きましたがこわくなり沈みかけて、イエス様に助けを求めました。主に信頼しているように見えて、実は彼は主を試みていたのかもしれません。「なぜあなたは疑うのか」とイエス様に言われています。実際の所、私たちも信仰のように見えて本当は恐れや不安から行動しているのかも知れません。だから、いつもへりくだって謙虚でいましょう。強がる必要なんてありません。私たちがこわがっても、主はちっとも動揺したりしていません。その御手はあなたと共にあります。
2025年2月9日
「さあ、向こう岸へ渡ろう」 マルコ4章35-41
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
よく人を安心させるために「もう、大船に乗った気持ちで」という会話を耳にすることがあります。これからどんな事が起ころうとももう絶対に大丈夫、と請け負うものです。乱暴な言い方に聞こえたら申し訳ありませんが、神を信じる時、私たちはどこか「大船に乗った気持ち」になって、これからはすべてがうまく行くと思うかも知れません。そんな私たちにこの聖書箇所はとても大切な教訓となるでしょう。弟子たちは何の不安もなく従いました。だってイエス様が「向こう岸へ渡ろう」言い出したことですし、共にいてくださったのですから。
ところが突然の嵐に見舞われ、舟は水で一杯になり沈みそうになったのです。そんな緊急事態なのに、イエス様は寝ているではありませんか。弟子たちは「こんな大変な時にあなたはなぜ私たちを助けてくれなのですか」とイエス様を問いただしたのです。
私たちも身に迫る不安や心配事に遭遇します。そんな時、私たちは祈りみことばを思い出してすがろうとします。けれど何も状況は変わっていないように見えます。このような信仰の試練はきっと、自分の信仰に頼るのではなく、主ご自身に頼ることを経験するためです。
弟子たちはこの日、忘れない経験をしました。イエス様は何もしてくれない、私たちのことを心配してくれないと嵐の中で確かに思ってしまいました。でもその直後、イエス様は起き上がり風をしかりつけ「黙れ、静まれ」と命じました。すると風はやみ、大なぎになってしまったのです。主の口からでたことばがすべてを静めてしまったのです。弟子たちは「ありがとうございます」と言えませんでした。ただただ大きな恐怖に包まれたと書かれています。同じ舟で寝ていたこの方は誰だろう、とひとり一人が現実的に思わされたのです。信仰による救いはきっと嵐が静められることよりも、その荒れ狂う中でも平安でいられること、そしてその中で神さまを自分の救い主として感じることだと思います。どうか「うわさ」ではあなく、「この目で私は見た」と言えるような生きたイエス様に出会いましょう。永遠のいのち、それはキリストを知ることですから。
2025年2月2日
「私をあわれんでください」 ルカ18章9-14、35-43節
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
今日は「私をあわれんでください」と言った人のお話しです。ひとりは目の不自由な人、他方はたとえの中の取税人です。取税人は礼拝に来たのに、目をふせて、祈り場から遠く離れています。一方、パリサイ人は高慢で人を見下しています。礼拝の場で人を裁いているなんて悲しいです。「こんな罪人の私をあわれんでください」それは私を低くしてください。でも私があなたを嫌いにならないようにと願うことかもしれません。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。自分を高くする者、それは自分を神のように思っている人です。そんな大それたことなんか考えるはずないとあなたは思いますか。でも私たち罪人は気が付けば、神さまを自分の願いを実現させるために利用することも平気なのです。それが私たちの罪の本性なのです。私たちは自分から低くなることは出来ないと思います。だから主が低くしてくださるのではないでしょうか。低くされて初めて、私たちは神さまによって、恵みに生かされているという平安に高められると信じます。
道ばたで「私をあわれんでください」と大声で叫ぶ人がいました。イエス様はその人に「わたしに何をしてほしいのか」と言って下さいました。主は誰にも目をとめてもらえないような者の声にも答えてくれます。私はイエス様に何をして欲しいかと尋ねられたら何とお答えしようと思いました。いいえ、その前に心から「私をあわれんで」と言えますように。 そのたましいの叫びを主は決して聞き逃すようなお方ではありません。
イエス様のいやしの奇跡、それは私たちの身にも起こりうると信じます。それは結果的に、私たちが「神をあがめながらイエスについて行った」という光景です。目が見えるようにならなくても、主について行けたら、その「あわれんでください」と願ったことはかなえられたのではないでしょうか。どうかこの礼拝の場で、私たちが「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈り、主のあわれみで神に感謝しつつ家に帰ることができますように。