クリスチャンバプテスト教会
Christian Baptist Church
クリスチャンバプテスト教会

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のあるものは聞きなさい。」
2025年3月23日
「いっしょに喜んでください」 ルカ15章
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 7節
イエス様と民衆とのかかわり方を見ていた当時の宗教家たちのは信じられませんでした。それはイエス様が取税人、罪人たちと喜んで食事をし楽しそうにしていたからです。神さまは「いっしょに喜んでください」というメッセージを私たちに届けてくださっています。
クリスチャンである皆さんは、この一匹を捜し出し方にかついで大喜びする羊飼いは、イエス様であることを知っています。罪人を救うためにこられ、贖いの死を遂げて三日目に復活したイエス様です。その思いの中に、「喜び」があったのです。もちろん主の十字架は聖い御業にちがいありません、でも忘れてはいけないのは、喜びのゆえに十字架を忍ばれたというメッセージです。(へブル12:2)
罪人が悔い改める、それは反省して良い行いで埋め合わせをするものではありません。悔い改める、それは罪を犯したことが分かっても、変わらず子でいてもいいんだと納得することです。たとえの中の弟息子と父親とのやり取りは私たちにそのことを語っていると思います。私たちが信じて救われる時だけでなく、神の子どもになってから罪を犯して帰れなくなった時も、どうか悔い改めましょう。私たちの思いと、天の父の思いは天と地以上に違っています。帰ってもいいのです。
弟息子が一匹であったように、兄もいなくなった一匹なのです。家出して放蕩する一匹もいれば、家にいて不満を秘めている一匹もいます。でも両方、羊飼いが探し求めて見つかるまで捜し続けてくれる「失われた一匹なのです。言いかえれば、私たちみなが一匹なのです。救われた後でも、私たちはいなくなった一匹です。兄は不満でした。馬鹿げた弟を迎え入れた父に対して大きな不満をぶちまけます。「あなたとともにいても何も楽しくはなかった」「それなのになぜ弟にはこんな良くするか」。その時、信じられないことばを聞きます。「私のものは、全部おまえのものだ」と父は言いました。きっと兄は悔い改めたに違いありません。そして喜びの輪の中に入って行ったのではないでしょうか。羊飼いは喜びのために迷った一匹の羊を捜し、見つけられた羊同士も互いのことを受け入れ合って喜び合えたらどんなに幸いでしょう。
2025年3月16日
「あなたを罪に定めない。行きなさい。」 ヨハネ8章1-11節
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
人は他者の罪を裁くことで自分の正しさを主張します。でもイエス様にとってその人の罪は裁くための理由ではなく、赦すためのものでした。この朝、人々の前に、捕まえられてきたのは姦淫の現場で捕らえられた女性でした。そして「モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています」と叫びました。みなの目がイエス様に注がれていました。
イエス様は静かにでもはっきりとみなに聞こえるように言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。今、律法をお授けになった方ご自身が真の意味を述べたのです。イエス様は人々に対して「あなたがたは石を投げてこの女性を裁けないはずです」ということを諭したのです。言いかえれば「あなたがたもこの女性と同じように罪ある者ではありませんか」と問うたわけです。
イエス様は次にこの女性に問います。「あなたを罪に定める者はいなかったのですか」と。その場にはイエス様とこの女性しかいません。民衆が女性を罪に定められなかったのは、自分の罪を主の律法によって示されたからです。ふたりだけになること、イエス様が最初から願ったことでした。私たちは他の人がいる場では素直に自分の罪を認められない者です。「あの人も同じではないか」「私よりあの人の方がもっと悪い」とか言って…。
人はこの女性を罪に定めることはできませんでしたが、唯一このお方だけが「あなたを罪に定める」と宣言できるのに、何とその口から出たのは意外なものでした。「わたしもあなたを罪に定めない」、私には「あなたを罪に定めたくない、生きていきなさい」と言ってくれているように聞こえるのです。そしてイエス様はこの女性に「今からは決して罪を犯してはなりません」と言って下さったのです。このみことばこそ、救い主が赦された者に恵まれるものではないでしょうか。
2025年3月9日
「引き離すことはできません」 ローマ8章31-39節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
使徒パウロを通して神さまは、信じて救われ私たちに知ってほしいことがあると強調しています。救われた私たちは、神を愛する者になっていくのです。赦された罪人に過ぎない私たちが神を愛するとは、どういうことなのでしょう。
それは「神はすべてのことを働かせて益として下さるお方だ」という福音を味わって納得する者になっていくことです。もちろん神のなさることのすべてを私たちが理解することなど決してできるはずはありません。説明できなくても経験でこのみことばが真実であることを私たちは知っていくのです。
「だれが私たちに敵対できるでしょう」とパウロは言いました。そもそも神さまが私たちの味方で、誰も敵対できないということはどういうことでしょう。少なくとも私たちが期待することのすべてがかなえられるという意味ではないことはわかります。そうではなくて、私たちが神を愛する者になっていくことを妨げることのできるものは、いないということではないでしょうか。ヨブがあんな苦しみにあったこと、サタンが願ったことでさえ聞かれてもなお、そのことを通してヨブは今までよりも主を愛する者になっていきました。それをパウロは「恵んでくださる」と言い表しました。恵まれるとは人が望んだものを手にするのではなく、神がその人に望んで備えていたものを神ご自身の意志と主権でお与えになるということです。
最後の問いかけを聞きましょう。「あなたをキリストの愛から引き離すのはだれですか」。こう言いかえてみましょう。「神がすべてのことを働かせて益としていると、あなたは信じられますか」「神は私の味方だと信じられますか」。もし今、私たちがそう信じられないのなら、みことばに従ってみることです。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引きはなすことのできるものは決してない」。「こうしてください、ああしてください」と言う祈りから開放されて「このことが私にとって益となると信じさせてください」と謙虚に祈りましょう。どうかその先にある恵みに出会えますように。
2025年3月2日
「感謝の心を持つ人になりなさい」コロサイ3章12-17節
互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさいと神さまは言っています。これらの大切なものは、きっと「赦し合う」ことで身についていくと信じます。言いかえれば、赦し合うことが出来なければ何も身につかないと思えます。それも相手にこうなて欲しい、あの人がこうなればと相手が変わることを期待するのではなく、自分自身が身につけることの大切さを思います。
私なんてイエス様にようには人を赦さたり出来るはずがない、誰もがきっとそう思います。けれど神さまは出来ないことをお命じになるはずはないのです。確かに自分一人の力では不可能です、けれど信じる者には御霊の助けがあり、そして信じる仲間、友がいるのです。言い方を替えれば、私たちは赦し合うためにともにいるのかもしれません。皆どこかに過ちや欠点、弱さと言った負の側面を持っています。そんな者たちをイエス様は召しくださったのです。だから赦し合えるのです。完全な者しかいなければ、そこには赦し合う必要もありませんが、深い同情も慈愛も謙遜も柔和も寛容も生れないでしょう。それは冷たい世界です。
私はヨハネ13章のイエス様を思い出しました。ご自分の愛を残るところなく示めそうと、主は弟子たちの汚れた足を洗うために手ぬぐいを身につけたのです。そして「このわたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と仰せになりました。愛することは、赦すことだったのです。
最後の晩餐を食べている時でも、弟子たちは「誰が一番偉いか」と口論していました。きっと互いに不満をかかえ、いらだっていたに違いありません。人はこのようなものなのです。そんな時、こともあろうか主であり師である方が、最も卑しい役目を自らかってでたのです。「誰が一番偉い」なんていうことは、もうどうでもよくなっていました。足を現われながら彼らは、自らを恥じていたと思うのです。もしイエス様の御手が手ぬぐいをもって私たちの足をきれいに拭いているとしたら…私たちは救われました。それはきっと互いに赦し合って生きていくためです。そのことを忘れてはいけないと強く思わされます。
2025年2月23日
「今はついて来ることができません」ヨハネ13章31-38節
「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
とても緊張した場面です。イエス様は弟子たちを前に静かに話されました。彼らのうちの一人がご自分を裏切ることを公にしたのです。続けてイエス様は「わたしはしばらくの間、いっしょにいるが、いなくなる」「そしてあなたがたは捜すでしょう」と仰せられました。「わたしが行く所へは来ることができない」とまで言われました。聞いていた弟子たちの動揺は大変なものだったに違いありません。
「イエス様がいなくなった後、自分たちは何者なのだろう」と思ったはずです。主は続けてこう言われました。「あなたがたがわたしの弟子だいう証しは、互いに愛し合っていること」だと。権威でも知識でもなく、互いに愛し合っている、それもイエス様ご自身が彼らを愛したようにです。そうです、この日弟子たちの足を洗ったように。
「あなたは今はついて来ることができません」でもイエス様はペテロに続けて言われました。「しかし、あなたは後にはついて来ます」。ついて行けない時もあるのです。ペテロは「なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、私はいのちも捨てます」と言いました。ペテロは必死でしたが、自分がついて行けなくても、そのことに納得しなければなりませんでした。私たちも忘れないようにします。
そんなペテロにイエス様は「あなたはいのちを捨てると言いながら、三度わたしを知らないと言います」と仰せになりました。驚きのことばです。ペテロは人生の中で最もつらい経験をすることになります。決して「今はついて行けない。でもいつかついて行く時がくるならそれでいいことにしよう」という軽いものではないはずです。ついて行けない、いいえ、ついて行かない自分の弱さを知らされるところをペテロは通されます。それこそ「三度わたしを知らないあなたは言う」とイエス様が彼に言ったことです。その先に「しかし、後になるとついて来ます」とう時が備えられているのではないでしょうか。ペテロが三度主を否んだ時、彼を見つめるイエス様と目があい、泣いたと記されています。そんな経験こそ、救われた私たちみんなに必要なことだと語りかけているようです。
2025年2月16日
【先週のメッセージより】
「主よ。もし、あなたでしたら」 マタイ14章1-33節
ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
私たちを動かしているものは一体何でしょうか。内側の思いが私たちを動かしていると思います。ここに出て来る国主ヘロデを動かしているのは、人々への恐れや人々の手前もあったと書かれています。私たちは神を信じる者として「神さまが喜ばれることは何か」という思いで動かされたいと思います。
イエス様は多くの人たちが集まってきている光景を見て、彼らを深くあわれんで下さいました。イエス様を動かしているのは、人々へのあわれみの心でした。
夕方にったので弟子たちは提案します。「自分たちで腹をみたすように人々を解散させてください」。でもイエス様は「あなたがたで、あの人たちに食べる物を上げなさい」と言います。弟子たちは「パンが五つと魚が二匹よりほかありません」と答えます。必要に比べ、差し出せる物があまりにも少な過ぎますというのが彼らの思いです。
「空の鳥、野のゆりを見てごらん。あなたがたの天の父がこれらを養っている。ましてあなたがたに良くしてくださらないことがあるだろうか」と言われたイエス様。今ここで、イエス様はたった五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて感謝して下さったのです。何の希望もないように見えるところでも、主がおられれば希望があります。イエス様はそれらを裂いて弟子たちの手に渡しました。そして弟子たちは人々に配ったのです。
この後、イエス様は弟子たちを先に舟に乗り込ませて、ご自身は祈るために山に上りました。その後、弟子たちの所へ行くために強風の中を湖の上を歩いて来たのです。幽霊だと叫び出す弟子たちに、主は「わたしだ。恐れることはない」と言いました。彼らにこの時、信仰があったら、33節の「確かにあなたは神の子です」という結末になったと思いますが、実はそうではなかったのです。ペテロは「主よ。もしあなたでしたら、私に水の上を歩くように命じてくださいと」と言い、水の上を歩きましたがこわくなり沈みかけて、イエス様に助けを求めました。主に信頼しているように見えて、実は彼は主を試みていたのかもしれません。「なぜあなたは疑うのか」とイエス様に言われています。実際の所、私たちも信仰のように見えて本当は恐れや不安から行動しているのかも知れません。だから、いつもへりくだって謙虚でいましょう。強がる必要なんてありません。私たちがこわがっても、主はちっとも動揺したりしていません。その御手はあなたと共にあります。
2025年2月9日
「さあ、向こう岸へ渡ろう」 マルコ4章35-41
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
よく人を安心させるために「もう、大船に乗った気持ちで」という会話を耳にすることがあります。これからどんな事が起ころうとももう絶対に大丈夫、と請け負うものです。乱暴な言い方に聞こえたら申し訳ありませんが、神を信じる時、私たちはどこか「大船に乗った気持ち」になって、これからはすべてがうまく行くと思うかも知れません。そんな私たちにこの聖書箇所はとても大切な教訓となるでしょう。弟子たちは何の不安もなく従いました。だってイエス様が「向こう岸へ渡ろう」言い出したことですし、共にいてくださったのですから。
ところが突然の嵐に見舞われ、舟は水で一杯になり沈みそうになったのです。そんな緊急事態なのに、イエス様は寝ているではありませんか。弟子たちは「こんな大変な時にあなたはなぜ私たちを助けてくれなのですか」とイエス様を問いただしたのです。
私たちも身に迫る不安や心配事に遭遇します。そんな時、私たちは祈りみことばを思い出してすがろうとします。けれど何も状況は変わっていないように見えます。このような信仰の試練はきっと、自分の信仰に頼るのではなく、主ご自身に頼ることを経験するためです。
弟子たちはこの日、忘れない経験をしました。イエス様は何もしてくれない、私たちのことを心配してくれないと嵐の中で確かに思ってしまいました。でもその直後、イエス様は起き上がり風をしかりつけ「黙れ、静まれ」と命じました。すると風はやみ、大なぎになってしまったのです。主の口からでたことばがすべてを静めてしまったのです。弟子たちは「ありがとうございます」と言えませんでした。ただただ大きな恐怖に包まれたと書かれています。同じ舟で寝ていたこの方は誰だろう、とひとり一人が現実的に思わされたのです。信仰による救いはきっと嵐が静められることよりも、その荒れ狂う中でも平安でいられること、そしてその中で神さまを自分の救い主として感じることだと思います。どうか「うわさ」ではあなく、「この目で私は見た」と言えるような生きたイエス様に出会いましょう。永遠のいのち、それはキリストを知ることですから。
2025年2月2日
「私をあわれんでください」 ルカ18章9-14、35-43節
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
今日は「私をあわれんでください」と言った人のお話しです。ひとりは目の不自由な人、他方はたとえの中の取税人です。取税人は礼拝に来たのに、目をふせて、祈り場から遠く離れています。一方、パリサイ人は高慢で人を見下しています。礼拝の場で人を裁いているなんて悲しいです。「こんな罪人の私をあわれんでください」それは私を低くしてください。でも私があなたを嫌いにならないようにと願うことかもしれません。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。自分を高くする者、それは自分を神のように思っている人です。そんな大それたことなんか考えるはずないとあなたは思いますか。でも私たち罪人は気が付けば、神さまを自分の願いを実現させるために利用することも平気なのです。それが私たちの罪の本性なのです。私たちは自分から低くなることは出来ないと思います。だから主が低くしてくださるのではないでしょうか。低くされて初めて、私たちは神さまによって、恵みに生かされているという平安に高められると信じます。
道ばたで「私をあわれんでください」と大声で叫ぶ人がいました。イエス様はその人に「わたしに何をしてほしいのか」と言って下さいました。主は誰にも目をとめてもらえないような者の声にも答えてくれます。私はイエス様に何をして欲しいかと尋ねられたら何とお答えしようと思いました。いいえ、その前に心から「私をあわれんで」と言えますように。 そのたましいの叫びを主は決して聞き逃すようなお方ではありません。
イエス様のいやしの奇跡、それは私たちの身にも起こりうると信じます。それは結果的に、私たちが「神をあがめながらイエスについて行った」という光景です。目が見えるようにならなくても、主について行けたら、その「あわれんでください」と願ったことはかなえられたのではないでしょうか。どうかこの礼拝の場で、私たちが「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈り、主のあわれみで神に感謝しつつ家に帰ることができますように。
2025年1月26日
「主の山の上には備えがある」 創世記22章1-14節
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
アブラハムの生涯を一言で言うならば「神はしてくださる」という信仰です。それは約束を待つことであり、わが身の弱さや失敗にかかわらず主なる神が成し遂げてくださるという姿勢です。でもここで神さまはアブラハムとイサクに試練を与えました。それは「イサクをいけにえとしてささげなさい」というきっと誰の考えにもなかったことでした。
イサクも幼いころから、幾度も動物がいけにえとしてささげられ、その恩恵のうちに自分たちが神さまを礼拝することの厳粛さを身に感じてきたことでしょう。私のために血が流され、私の罪を贖うために流された血、それは救い主イエス様の血です。他の誰でもない、私たちでは代われない、唯一汚れなき御子の血です。クリスチャンとして生きていく上で、大切なのはこの「私にための流されたキリストの血」であることは、揺らぐことのない大切な柱です。赦され、励まされ、慰められる根拠、愛されているという平安はこのキリストの私のために流された血以外にはあり得ません。それはアブラハムとイサクも同じです。でも神さまはこの日、アブラハムたちに「自分をささげる」ことを求めたのです。
イサクは全焼のいけにえの羊は、自分だと受け入れていたのではないかと私は思います。今までの礼拝とは違った緊張感と、神が私のいのちを求めておられるという意味を感じながら祈りながらの道中だったのです。そしてその時が来ます。アブラハムは祭壇を築き、息子イサクを縛ってほふろうとしました。ここで自分の姿、礼拝している自分の姿勢を省みることが大切だと思います。受けることばかり求めてきた私に、今、神さまは「あなたをささげなさい」と言ってくれているのです。
確かにこの日、アブラハムとイサクのために主は、一頭の雄羊を備えてくださいました。でもそれは「イサクをささげたアブラハム」「自分を主の御手にゆだねたイサク」への代わりだったのです。うまく言えませんが、自分をささげることなしに、自分の代わりになるものはないのではないでしょうか。今、私にできるのは「いつも喜んで、たえず祈り、どんな場合でも感謝する」生き方だと思います。あなたは今日どんなことを感じ学んだでしょう。その思いに神さまの祝福がありますように。
2025年1月19日
「ましてあなたがたに」 マタイ6章19-34節
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
光を取り込むところが目です。もし私たちの目が閉じたままなら、外の世界から光をうちに取り込むこともきれいな景色も見ることがかないません。イエス様が語ることばは光です。もし耳やをふさいでいたら、私たちにうちは暗いままです。私たちには主の光なることばが欠かせません。
「心配したりしてはいけません」そんなこと言られても心配してしまいます。私たちは揺れ動きます。心配と安心の間で気持ちが行ったり来たります。心配ばかりする私たちにイエス様は声をかけて安心のほうに引き寄せてくれます。「こんなことで不安で心配」から「こんなことがあっても、イエス様がこう言っているから大丈夫」ということのきっとくり返しなのです。
神さまのみことばは、私を諭し同時に励ましてくださいます。主は私を打ってくれます。そして主は私を見放さず、赦し、養い育ててくださいます。ガラテヤ書の6章7-9節を読むたびに、信仰の薄い私にはイエス様が「おまえはこのままではいけない。けれど、おまえはおまえのままでいい」と言ってように聞こえます。主は私に「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない」と言ってくださと同時に「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになる」と励まして下さっているのです。どちらも私を愛するお方からのことばです。
私たちにイエス様は心を注がれています。暗い気持ちに覆われている私たちを光に中に伴ってあげたいと願っておいでです。あなたは自分なんてと思っていませんか。あなたは自分がこうなったのは自業自得だとあきらめていませんか。でもイエス様は「失望しないでいなさい」「神を侮ってはなりません」と仰せです。私たちのためにご自身の命さえ差し出したお方が、まして私たちによくしてくださらないわけがあるでしょうか。私たちは救われていても心配するのです。それでいいのです。でも思い違いをしてはいけません。神さまの光の中に生きるのです。そしてみことばを聞きましょう。暗きやみの中にいようと、重い試練を今味わっていても、主のみことばでよみがえりましょう。復活の光の中に生きてまいりましょう。
2025年1月12日
「試練に耐える人は幸いです」 ヤコブ1章12-21節
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
私がイエス様を信じてから。最初の頃は救いが何か分かっていませんでした。でも年を重ねて今は、確かに救われていると信じられる幸せに出会っています。最近、朝早く目が覚めているか寝ているかわからないような時に、みことばが心に聞こえました。「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして…主に仕えるように仕えなさい」。私が悩んでいたのは、人を見ていたからだと気づかされました。私が思い出さなくてはならないのは、人間同士の問題ではなく、私がイエス様のしもべとしてそのことをなすべきということだったのです。とてもシンプルなものです。「私はただキリストのしもべとして生きればいい」それだけです。私は救われました。
人の歴史は誘惑との戦いといってもいいでしょう。それは私たちひとりひとりの人生でも同じです。心が騒ぎ、反発して悩み続ける私たちです。誘惑は自分の欲との葛藤であり、人間同士の互いの欲の駆け引きです。私たち神を信じる者の幸いは、人間同士の誘惑と言う厄介な問題を、シンプルにみことばで照らして解釈できることです。私はどう生きればいいかが示されること、これが救いだと信じます。
私たちは自分の見方、考え方が正しいという思いに囚われてしまいます。けれど、どっちの意見、見方、感じ方が正しいとかは問題ではありません。ただ一つの事だけが問われます。「主にそむいてはならない」ということです。人はみな間違いを犯す罪人です。私たちもそうです。だからこそ「ただ、主にそむいてはならない」というみことばに自分を照らしてもらうのです。
試練に耐える人、その人はみことばに救われる人です。問題を解決するのでなく、問題の中でも立ち続けられる幸いな者です。その人はきっといのちの冠を受けると神さまは約束してくださいました。さあ、試練の中でも救ってくれるみことばを素直に受け入れましょう。
2025年1月5日
「キリスト・イエスの贖いのゆえに」 ローマ3章21-26節
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
義と認められる=救われると言っても差し支えないのですが、私たちはその救われるというイメージが乏しく、神さまの思いとはきっとずれてしまっています。肝心なのは「人が救われたい、義と認められたい」と願ったのではなく、「神さまが人を救い、義としたいと望んでいる」ということだと信じます。それを「価なしに」ということばが現わしています。人の側にそうされる何の美徳も理由もないのに、主なる神は私たちを救い、義としたいと願い実行されたというのです。神さまが出発点です、それが恵みです。そして恵みの神が、実際にされたことはすべて、キリスト・イエスによることでした。それを「贖い」と言います。
イエス様の十字架にはふたつの目的がありました。その一つは「私たちをご自分のもとに取り戻す」こと、そして二つ目が「私たちを洗ってきよくする」ということでした。悪魔と罪と死の奴隷となってしまった私たちを、神さまはイエス様の死と言う代価をもってご自分の子としてくださったのです。私たちはもう罪の奴隷ではなく、神の子としてもらいました。
信じる者は罪が赦されると言いますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。旧約聖書におい罪を犯した者は、いけにえの動物を連れて神殿に行き、その頭の上に手を置いて後、いけにえの動物はほふられ、その血をささげることで罪は赦されるとされています。でもそのいけにえの血は「覆い隠す」ことは出来ましたが、永遠に人をきよめることは出来ません。だから本物の「なだめの供え物」としてイエス様が来られ、十字架で血を流されたのです。神は私たちを奴隷の身分から、ご自身のものに買い戻すだけでなく、その汚れまで洗ってくださったのです。それが「贖い」であり、「義と認められる」ことなのです。
私たちを贖うお方は、恵みによって価なしにイエス様を信じる信仰によって、私たちを買い取り、洗って下さったのです。どうか救いに不安を持たないでください。恵みなのですから。生きることを恐れないでください。主は私たちの味方なのですから。