top of page

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

2024年9月1日

「あなたがたの光を」 マタイ5章14-16節
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめらるようにしなさい。


 驚くべきことばです。私たちがこの世界を照らす光だなんて。この光とは、行いではなく、私たちのうちにある心、希望、気持ちのようなもので、それは見せるものではなく、人々に伝わっていく、自然にそれも暖かく、自分にもそうような内なる希望が欲しいと言ってもらえるそんようなものではないでしょうか。
 イエス様は全員を照らす光だと言っています。神さまに造られた人である私たちが生きる上で不可欠な光、そのような思いです。聖書ではそのことを信仰いっています。
 良い行いとはたとえたら「実、果実」です。内なるいのちが私たちの暮らしの中で結ぶ結果、暮らしぶり、姿勢のことではないでしょうか。その生きる姿勢を支える「内なる光」を二つ紹介します。一つ目は「今が一番良い」という思い。もっと別の人生を送れると思っていたのに、思い込んでいた私と実際の今の私の喰い違い が私達を苦しめます。そこで「今が一番良い」と言 われたら、目が覚めるような安堵を味わうでしょう。信仰の慰めはこの手のものです。「今が一番良い」と今を納得することです。二つ目は「すべて神からのものと受けとめる」ことです。人生よいことばかりではありません。うまくゆかないことも あります。思いがけない障害に出会うこと、期待はずれに終る こと、思いうとおりにゆかないこと、運の悪いこともあるでしょう。しかし、それら全てを含めて人生の全体を神さまより与えられたものとして受けとめることです。うまくゆかないことのひとつひとつが解決されてゆくことが救いではないのです。良いも悪いも一切切を込みで、人生を神よりの物と受けとめることです。
 私たちの光、イエス様からいただいた救いと福音の恵みが輝くとき、たったひとつのことだけが成し遂げられます。それは「あなたがたの父をあがめる」ということです。私たち人間や良い行いが称賛されてはなりません。ただ天の父がたたえられることになります。どうか私たちの人生の目標、支え、慰めが「父があがめられる」ことでありますように。

​2024年8月25日

「パンだけで生きるのではなく」  マタイ4章1-11節
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」


 全地全能にて創造主なるお方が人となって今、公の生涯を歩み始められたころの記事です。主は神である特権を一切わきに置いて、へりくだって私たちと同じ人となっておられます。何と真の神であらるお方は、ご自分を無にして今、御霊に導かれ、悪魔の試みを受けるために荒野にいるのです。
 「あなたは神の子なのだから、空腹を満たすためにこの石をパンに変え自分の空腹を満たしてみろ」。けれど私たちの主は石をパンに変えて食べることはなさいませんでした。自分のために御力を使う、そのようない方ではありません。そして主はこう言ったのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによって生きる」と。人が人として生きるには、パンだけでは十分ではないと、いいえなくてはならないのは「神のことば」だと言われます。私もあなたも人です、ならばパンだけあれば生きていける存在ではないことを覚えましょう。
 試みる者、悪魔は聖書のことばを知っています。「あなたが神の子なら、この屋根から飛び降りてみなさい。きっと聖書がいうように神はあなたを救うから」と。でもそれは言いかえれば「あなたが神の子かどうか飛び降りて確かめてみよ」といっているようです。イエス様は「あなたの神である主を試みてはならない」とはっきり仰せになりました。神さまを試してはなりません。「これこれしてください。そうすればあなたが神であると信じます」このような思いが私たちにないでしょうか。あっても構いません。でも覚えておきましょう「神である主を試してはいけません」。
 自分の弱さや頼りなさに失望しますか。それとももっと信仰深くしなければと奮い立ちますか。でも大切なことを忘れないようにしましょう。それは私たちのために十字架に死んでくださったあのお方は、一切の神としての特権を捨ててまでそうされたということ。そしてそれは、今ここに座っておられる私たちの救いのためだったという尊い事実です。恐れることはありません。主イエス・キリストはきのうも今日もいつまでも変わることはないのですから。

​2024年8月18日

「信じる者がみな、永遠のいのちを持つため」 ヨハネ3章1-16
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」


 ニコデモというユダヤ教の指導者が、夜にイエス様のもとに来ました。私はだれでも受け入れて話しをする主の態度に魅力を感じます。相手がだれであろうと真理を求める人をイエス様が喜び親しく会話され、そのたましいを導てくれています。
 ニコデモは、イエス様を教師として認めていますが、まさか神のひとり子であられるなんて想像もしていません。イエス様はそんなニコデモに「新しく生れなければ神の国を見ることができません」と言ったのです。」それは「水と御霊によって生れる」すなわち「みことばを信じて、御霊によって新しく生れる」ということなのです。
 でもどうしてもニコデモには信じられないことでした。イエス様は旧約聖書から彼に信じることで救われたイスラエルの歴史を思い起こさせてくださいます。かつてエジプトを出た民が荒野で神さまに対して不平を言って罪を犯した時、毒蛇を送られて多くの民が死んだのでした。その時、モーセに主は「青銅の蛇を作って、それを仰ぎ見れば、生きる」と命じたのです。そして信じて仰ぎ見た者は生きたのです(民数記21章)。イエス様は、モーセがつくって竿のうえに掲げた青銅の蛇のように、今回は「人の子もまた上げられなければなりません」と、ご自身の十字架の御業に言及したのです。
 救いは主のものです。ニコデモには聖なる神が罪人を救うとは想像できませんでした。まして、神の御子が十字架に上げられるなんて、それも信じる罪人を愛してなどと考えもできないことでした。ニコデモは神に出会い、そのみこころを知らされたのです。もうイエス様は彼にとって教師ではなくなりました。イエスは神の御子、救い主となったのです。滅びるとは神を知らずに罪の中に沈んで永遠に生きていくことです。主はそうであってならない、そうさせてはならない、だからわたしはこの地にこうして来たと言います。永遠の命とは死なないいのちではありません。今生きている命が、いつまでも神がともにいてくださると信じて、そのように信じたままに恵みで生きていくことなのです。そしてこの救いは、この世を愛する神の愛から始まります。

​2024年8月11日

「その水を私に下さい」 ヨハネ4章1-15節
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」


 この町は高地にあって、飲み水の確保が大変な場所でした。イエス様はユダヤからガリラヤへ向かうちょうど真中あたりのここで、疲れをいやし休んでおられました。そして町に住む女性が水を汲みにきたので、「わたしに水を飲ませてください」と言われました。不思議がっている女性に「その人(わたし)はあなたに生ける水を与えるでしょう」と言ったのです。
 女性は文字通りの飲み水を求めています。でもイエス様が与えようとしているのは、その人の内で湧き出る泉のような救いでした。人が神さまに欲する物と、神なる主が私たちに与えたいものは食い違っています。
 イエス様は「この水を飲んでもまたあなたは渇きます」と女性に言いました。そうです、そういうものです。もし私たちがこの女性のように「また渇く」ものを神さまに求めていたとすれば、得られてもまた渇いてしまいます。それでも主のあわれみは素晴らしいのですが。私たちの体や罪ある肉は、
満たされるということがありません。いつでも渇きまた飢えてしまいます。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」そんな便利な水があれば欲しい、と女性は懇願します。けれどイエス様が言っているのは飲み水のことではなく、泉のように枯れることがなく、私たちの内に流れでる救いの事です。「生ける水の流れ」とは、信じる者の内に聖霊が住まわれ、そのお方が私たちにイエス様のみことばを水のように流れるという恵みです。どうしても私たちは神さまの救いを、問題の解決や状況の変化に求めてしまいがちです。それが誤りというのでは決してありません。でもそれらはまた時がたてば「渇く」ものではないでしょうか。イエス様の下さろうとする救いは、私たちのうちにみことばが、渇いた土地を潤す恵みの雨のように注がれる事だったのです。あなたにとって主の御ことばが、全身全霊を潤すいのちの水となりますように、心から願い祈ります。

2024年8月4日

こんな罪人の私をあわれんでください」 ルカ18章9-17
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」


 宗教は良いものと思われ、それは悪い習慣の改善や道徳的に立派な人格に変わっていくからという理由かもしれません。でもこのイエス様のたとえ話しに出て来る宗教家、それも聖書を学んでいるこの人はそうではありませんでした。彼は自分は正しいと思っていて、他の人たちを見くだしています。信仰や宗教がいけないと言うのではありません。ただその本人が「自分は罪人」という意識や、「赦されているにすぎない」という思いを忘れるとき、私たちもこのたとえに登場する嫌な人間になってしまいます
 私をあわれんでください、「あわれんでください」情けない、弱い者の口からでることばだと思いますか。でもそれはこのことばの本当の意味を私たちが知らないからです。いいえ、きっとふたつの意味を持っているからです。ひとつは「ねだる」ことばです。他の人におもねり、援助やねだる姿を想像します。けれどもう一つは、神に対して使う時です。「私をあなたの御前で生かしてください」という誇りを乞う叫びのようです。どう祈ったら分からない時、それでも祈ることの他にはできない者のたったひとつの主への告白の願いです。
 イエス様はこのたとえを何のためにしたのでしょう。それは私たちひとりひとりを低くするためです。自分は間違ったことをしていない、悪いのはあの人ですと思っているたましいを低くしてくださるためでした。私たちはきっと「高ぶって低くされ、また高ぶって低くされ」のくり返しの中で生きています。私はもう十分へりくだっています、と思うことほどの高ぶりはないかもしれません。だから、うまくいかないことがあるのです。だから試練や患難がやって来るのでしょう。そんな時は「なぜこんなことが起きるのか」ではなく、「主よ、こんな罪人の私をあわれんでくださ」と言えますように。

​2024年7月28日

「わたしが選んだのです」 ヨハネ15章13-16節
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。


 ペテロ、アンデレそしてヨハネたちはイエス様に出会って、仕事も捨てて主に従ってきました、見た目には弟子たちが自分の意志でイエス様についていくことを選んだように見えます。けれど真実は、イエス様が彼らを選んで召したのです。それは今生きている私たちひとり一人にも当てはまることです。
 私たちは誤った選択をすることがよくあります。買物にしても進路にしても自分が選んだことが失敗だったという経験をします。でもイエス様とともに生きているというこの現実は、決して誤りではありません。なぜかって? それは私たちが選んだことではないからです。誤りのないイエス様が私たちを選んでくださったのですから。
 イエス様は私たちを選んだのでしょうか。ヒントがコリント第一に見ることができます。26-31節を読んでみましょう。「愚かな者、弱い者、足りない者、見下されている者を選ばれたのです」とあるります。普通なら選ばれないような者を主は召されたとあります。ご自身のもとに、教会と言うからだのメンバーにです。あなたは愚かで弱く取るに足りなから選ばれた、と言われたら怒りますか、それともみことばの続きをお読みになるでしょうか。
 もちろん今の教会に集う人々の中にも、有名な人や富んでいる人もいるでしょう。有能な方もいるに違いありません。でも大切なのはそのひとり一人も含めてすべてのクリスチャンは、自分や他の誰かを自慢したり、逆に見下したりしてはなりません。ただ「私たちは主だけを誇ります」と言って礼拝します。互いはあの主イエス・キリストが選んでくれたかけがえのない友、家族なのです。そのことを忘れないようにしましょう。
 愛を失いかけたり、愛を疑った時はどうか最初に戻りましょう。それがヨハネの手紙第一に書かれていることです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して」ということばです。人の行いが気になったら、思い出しませんか。「主が私たちを選んだ」ということを。自分の信仰生活が不安に成ったら思い出しませんか。「神が私たちを愛してくださった」ことを。
 

2024​年7月21日

「私は恐れない」 へブル12章26~13章6節
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。」


 最後まで残るかどうかを確かめるには、揺り動かすことも必要なときがあります。建物だけでなく、私たちの内側にある安心や平安にも言えることです。「これがあるから安心」と思っていることがちょっとの障害やトラブルで、一気に不安や心配にふれてしまうことはないでしょうか。神さまは私たち信じる子どもたちに「わたしの与える平安はこの世のものとは違う」ということ、あなたが信頼すべきはこのわたしだ」ということを実際の生活の中で手に入れて欲しい願っておいでです。
 人はみな自分の質問に対する答え、問題の解決を求めてしまいがちです。でも私たち神を信じる者たちにとっては、問題の解決よりも大切なことがあります。それは「こんな中でも、私は恐れません」という揺らぐことのない確信を頂けることです。「感謝しようではありませんか」と言いつつこの世を生きていけたらどんなにいいでしょう。試練や患難、病気や別れといった、私たちを不幸せにするように思われることこそ、私たちの内なるものを揺り動かすものです。私たちはそのようにして、内にある揺り動かないもの、「主ご自身がこう言われる」という御国のみことばに気づかされていくのではないでしょうか。
 私は恐れません、それは自分の強さに裏打ちされたことばではありません。私たちに肉の強さは、弱さの裏側です。本当の危機が訪れたら打ちのめされてしまいます。でも主ご自身が語られたことばは、私に強さに起因しません。死に打ち勝ったお方の揺らぐことのない御国のことばです。天地が滅び去っても、一点一角でも変わらないのです。さあ、そのお方が「わたしはあなたを離れす、あなたを捨てない」と仰せです。だから「私は恐れません」とお答えしませんか。

​2024年7月14日

「見本にしようと」 1テモテ1章12-16節
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに価するものです。私はその罪人のかしらです。


 パウロは「キリストは罪人を救うために」来られたと明言しています。正しいい人をでなく、罪人を救うために。この世では、善を行なって苦しんでいる人や無実の罪で投獄されているあわれな人を牢から出してくれる弁護士や裁判官の話しは大好きです。けれどパウロはこともあろうに「罪人を救う」ためにと言い放ったのでした。
 それは彼の主張ではなく、イエス様ご自身の思いです。「わたしは正しいを招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:32)。罪人を救うっていうのは、人の自由にさせてあげるとかいう意味ではないことが分かります。悔い改める、それは心の向きを変える、言いかえればイエス様は私たちを招いて、心の向きを変えさせるために来たのです。高慢が謙遜に、怒りが同情に、悲しみが感謝に、不満が満足に向きを変えられていく、それが罪人の救いです。主のみことばを通して、安心をいただき、また平安と赦しを受けつつ、希望の方向に変わっていく、そのことが救いだと信じます。
 パウロはここで「私は見本」だと言っていますが「手本」だとは言っていません。「手本」とは、誤りのない完璧な模範です。模範解答とか、模範少年とか…。でも「見本」は手本とは違って、目に見えないけど、確かにあるものをかたちにしているものです。パウロは「私が見本なのは、自分がすぐれているからでなく、主のあわれみを受けたに過ぎず、何の働きもないのです」と言っています。パウロは、神さまがどんなにあわれみ深く寛容であるかを、今後救われていく人たちに見えるようにするための見本なのです。目には見えない主の恵みをかたちにして生きる見本、生きた供え物なのです。そして、私たちもみんな同じように主のあわれみの見本としてこの世に生かされています。感謝です。

​2024年7月7日

「あなたは神と戦い、人と戦って」 創世記32章
「あなたの名の名は、もうヤコブとは呼ばれない。神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」


 20年を越える苦難の道を終え、ヤコブは故郷に向かっています。けれど心配事がありました。かつて兄と父イサクをだまして長子の祝福を奪ったのですから、兄に恨まれている自分の身の危険を感じていても不思議ではありません。そこでヤコブは兄に多くの贈り物と最上のへりくだりの挨拶をしもべに託しました。その一方で「神よ。私を救い出してください」と祈りました。これがヤコブの現実です。神さまを信じつつも、自分のアイデアや策に頼ろうともする…それって私たちでも同じではありませんか。
 ヤコブ、その名の由来は「押しのけるて奪う者」というような意味だそうです。彼は自分の意志を押し通し、邪魔ものをおしのける、そんな生き方をしてきました。でも今日、主はヤコブに新しい名をくださいました。「イスラエル」神と戦う人という意味です。勝つ、それは相手を圧倒して打ち倒すという意味合いではありません。相手ともに生きて自分の真の姿を知らされることです。この夜も主ご自身のほうからヤコブと格闘してくださたのです。そして彼は「勝てない方を相手にしている」という実感を抱くことができたのです。ただ彼は主にすがることしかできない我が身を知りした。これが勝つという意味だと信じます。
 イエス様は誠実に正直に言ってくださっています。「あなたがたにはこの世にあっては患難があります」。私たちに「患難の中で生きる」ことの覚悟を求めているように聞こえます。そのうえで「大丈夫だ、わたしはすでに世に勝ったのです」わたしが、勝ったからもうあなたは勝ち負けにこだわらずに生きなさいと聞こえます。大切なのは自分が問題を克服したり解決していく生き方よりも、その中で平安に生きられる、それが主のくださる救いなのではないでしょうか。

bottom of page