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「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

​2025年7月6日

「死で終わるだけのものではありません」 ヨハネ11章
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」


 ラザロの姉たちは弟のことをイエス様に伝言しました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。「すぐに着て癒してください」という気持ちを少し控えめに託しました。「きっと主は来てくれる」という期待以上の確信があったに違いありません。愛する者が困っている時に見捨てるようなお方ではない、必ずどんな重い病も主の御手に癒せないものはない、姉妹たちは疑うことなく待っていました
 姉妹たちはイエス様が来られるのを待っていたでしょう。でも一日、二日、三日たっても主の姿はありません。帰って来た使いはこんなことを言ったのです。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものですと。姉妹たちはそれを聞いてどう思い感じてでしょうか。「何を言っているのですか」「神の栄光って何ですか」という思いが膨らみます。そしてついに弟ラザロは息を引き取って、葬式も済み、墓の中への葬りを終わってしまったのです。「主は来なかった。なぜ」ふたりだけでなく多くの人が期待から一転して疑いと絶望に沈んでしまったとしても不思議ではありません。
 一方で、イエス様は「わたしはラザロを眠りからさましに行くのです」言い換えれば、「ラザロはわたしが来て、眠りから覚ましてくれるのを待っている」と言ったのです。「眠り」は「睡眠のことではありません。死んでいる死んでしまっていることを言っています。不思議ですね。イエス様は死を眠りと言ったのです。これは「死は終わりではなく、覚めるときがくる」という慰めの意味と同時に、「人が恐れている死でさえもその手に握っておられる方がいる」という厳粛なメッセージなのではないでしょうか。
 姉妹たちふたりはそろって同じことばをイエス様に言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の弟は死ななかったでしょうに」。イエス様はそう言って泣く彼女たちを見て、心を震わせ涙を流されました。「盲人の目をあけた方でも、死にはどうしようもなかったのか」。墓の前で人々のことばを静かにお聞きになった主は「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と言って、大声で叫ばれたのです。「ラザロよ。出て来なさい」と。ラザロは出て来ました、マルタもマリヤも驚きとそれにまさる喜びに満たされたに違いありません。私たちはイエス様を信じています。でもそれは自分の思いの範囲内でのことです。決して姉妹たちは不信仰だったとか言えません。彼女たちも信じていたのです。でも主イエスがされることは、私たちには想像もできないことです。だから「自分の信じていたとおりにならなかった」と気落ちしなくてもいいのです。いつも主のなさることはあわれみに満ち、受けるに価しないのにくださる恵みなのです。ああイエス様が私たちの主でよかったと思いませんか。

2025年6月29日

「その永遠のいのちとは」 ヨハネ16章33-17章3節
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」


 「永遠のいのち」それは神さまを信じる私たちに賜るものだということは知っていた気がします。でもそれは実際どんなものかと言われたら、みなさんはどのように答えるでしょう。ヨハネの福音書17章には「永遠のうのちとは神であるあなたとイエス・キリストを知ることだと記されています。信じていればこんな病がいやされるとか、信じていればこんな困難も乗り越えられるとうドラマチックな出来事ではないようです。信じていればいいことがあって、信じない人には不幸しかないというのではありません。同じ患難があったら、キリスト者はその中でキリストを知るのです。次に三つのことをお話ししましょう。
 最初は「キリストは私たちの味方」ということです。それはたとえ私たちが敗残者のように見られようが、失敗したように思われようが(自分も含め)、私の神キリストは勝利者です、という思いです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(ローマ8:31)。永遠のいのちは私自身はこんなにみじめで揺れ動いてもキリストが揺るぎない方である、それでいい、と確信させてくれます。
 二つ目は、キリストは罪を赦すお方だということです。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(エペソ1:7)。勘違いすることがあります、それは信じたら罪がなくなるかのように思うことです。私たちは罪がなくなったのではなく、赦されたのです。そして今もキリストの血は私たちの罪を赦し、キリストは父に対してとりなし続けていてくださるのです。もちろん罪は悲しみをもたらします、誤解や憤り怒りを感じさせてきます。でもそのとき、永遠のいのちは、私たちにその罪のために赦しを請うているキリストの姿を見させてくださいます。
 最後は、キリストは私たちのことを心配してくださるお方という恵みです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(1ペテロ5:7)。キリストが私たちのことを心配してくあださっている、そう思えますか。「そうは思えない。だって何も変わらないじゃないか」という声が聞こえそうです。でもそれは私たちの勘違いです。神が私たちの祈りを聞いてくださっている、私の気持ちをくんでくださり、私に弱さを理解し同情までしてくださっていると知っているだろうか。「聞かれる」は「かなえてくれる」と同じではないと思います。その御耳を傾け私以上に心を尽くし思いを尽くし一切を益としようとしてくださる、それがキリスト・イエス様なのですから。
 
  

​2025年6月22日

 「キリストとともに生きる」 ローマ6章3-8節、ルカ22章、23章 
「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」

「あなたがたは知らないのですか」私たちはいつも知らないのに、知っているかのような錯覚と思い込みに生きています。「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえり、キリストとともに生きる」この奥義が単なる説明から納得へと変えられるには時間が必要です。だからまず初めに、「自分は知らなかった」と認めませんか。そうすればそこから始まるのです。
 イエス様であっても、「従順」を学ばなければなりませんでした。主はゲッセマネで祈り、もがき、十字架を負いながら進んでいかれたのです。同時に弟子たちも「従順」という生き方を現実に受け入れる道を一歩一歩進んでいきました。ローマ6章で言っている「死」とは「自分の願いではなく、神のみこころに従う」ことなのではないでしょうか。過ぎ越しの食卓で、主はペテロに「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と話しました。それはペテロにとって最も避けたいことでした。言い換えれば「死」と同じです。ペテロは「ごいっしょならば死であろうと覚悟はできています」と言ったのです。「死」への抵抗です。一方イエス様はゲッセマネの園で「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。主は父のみころをご存じでありながらこう祈ったのでした。
 そしてペテロは主のことば通りに「私はあの人を知らない」と三度言いました。そして主イエス様は十字架で苦しんだ末に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様は「死」を味わったのでした。文字通りの肉体の死と同時に、ご自身の願いよりも父の思いがなされた現実を味わっています。
 あの最後の食事の席でイエス様はペテロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と仰せになっています。一度死んだ者でなければ他の人を励ますことは出来ません。死を避けて、自分の思惑通りに生きてだけいては、まことの命を見い出すことはかないません。たとえ、自分の願いのようにならなったとしても「主がなさったこと」とへりくだりましょう。良い結果ばかりが祝福ではないのです。すべてのことが私たちの愛する主の御手のなさったことです。そのお許しなしには何一つ起きないのですから。キリストとともに死んで、キリストとともに生きる」者になったことを信じ喜べますように。

​2025年6月15日

「主と同じかたちに」 2コリント3章12-18節
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」


 聖書を読むとき、私たちは想像もできななかったことに出くわします。この箇所もそうです。なんと私たちのような罪深く弱い者が、イエス様と同じようにされていくと書かれているのです。「主と同じかたち」とは、イエス様の思いに似せられていくということだと思うのです。
 もし、私たちがイエス様に似たものとなっていくことを妨げるものがあるとしたら、それは何でしょうか。ここに「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます」「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて」と書かれているのがヒントになりそうですね。私たちの顔をおおっているものって何でしょうか。ものすごく簡単に言えば「自分勝手な思い込み」と言ってもいいでしょう。パウロも自分の顔を覆っていたものに気づかされて、このような手紙を書き送ったに違いありません。「主の御霊のあるところには自由があります」その自由を私たちもいただいて、顔のおおいを取り除かれてみませんか。
 あの神の御子、イエス様はこの世にこられただけでは、救い主としてはまだ全うされていなかったと聖書は言っています(へブル2章)。御父が御子を救いの君として完全にするために用いたのがなんと「苦しみ」であったのです、私には驚きでした。これは私の顔のおおいを取りのけるに十分なものでした。あのイエス様が苦しみ通して全うされていかれたのだと知ったのです。だとしたら「主と同じかたちに変えられていく」私たちにも、「苦しみ」は同じように働くのではないでしょうか。
 「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」私はこのことを本当に知っているかと自問します。すべてというのは本当にすべてです。言い換えれば、私の身に起こることのすべては、私のために主がお許しになっていて、そのうえその一つひとつが私をイエス様のかたちに変えてくれるんだと言うことです。そしてこのことを知っている、経験してわかった人は神を愛する人だということではないでしょうか。私はずいぶん多くの思い込みを持っていました。そしてそれらが私の顔をおおってイエス様を見えないようにしていたんだと思います。今日は私たちは主と同じかたちに姿を変えられていくというみことばを聞きましたね。そのために神さまは苦しみをも用いてくださる方だと知りました。「どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)みことばが心に届きますように。

​2025年6月8日

「心をがして騒はなりません」 ヨハネ14章1-4節
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。…わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」


 神の民はこの世では、寄留者・旅人だと言われます。言い換えれば、私たちには帰る家がほかにあると言うことす。そんな私たちが生きるモチベーションは何でしょうか。患難に耐えていく支えって何だろうと思います。ただ苦しむために苦しみ、悲しむためだけの悲しみは辛すぎます。私たちは御国に向かって走るランナーです。どうか主からの栄冠をいただくことを目ざして、勇敢でありましょう。主の恵みに慰められながら今日も一歩、踏み出しましょう。
 それにしても人生は自分の思うようには行かないものですね。決して大きなものを得ようなどとは望んでいないのに…苦しみや悩みが私たちを神さまにつなぎ留めています。もしそれらがなければ、私などはきっと主のもとから去ってしまうかもしれません。苦しみは誰でも逃れたいものですが、避けられないのならどうかその中で主との交わりを深めましょう。私たちを救うみことばに出会えますように。この耳に主の声が聞こえますように。
 老いも病も患難も、もしかすると私たちをこの世から天の故郷へのあこがれを増し加えるためにあるのかもしれないと思いました。
イエス様は何度も言いました。「わたしはあなたを捨てて孤児にはしない。わたしはあなたを決して離しはしない」と。どうか、この世でに安楽を求めすぎないで、天にある故郷、イエス様の備えて下さっている家に戻ることを想像してみませんか。
 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」2コリント8章9節 
愛された私がもし、乏しさを嘆き落胆するとしたら、あのお方の恵みは不十分だと言っているのと同じです。そんなことはない、「主は私の羊飼い。私はとぼしいことはない」と言いたい気持ちになります。感謝します。

2025年6月1日

「あなたがたの光を輝かせ」 マタイ5章1-節16
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」


 イエス様はこの日、幸いな人はこのような人たちですと語りはじめました。多くの人たちがその話に心ひかれていたに違いありません。それは今も当時もみんな幸せを願っていたからです。そしてなかなか手に入らないのが「幸いな人生」だったからです。最初から「心の貧しい者は」「悲しむ者は」と言い出したものですから、聞く人たちは耳を疑いました。だってそのような人は、幸せからほど遠いと思っていたからです。そして主は、幸せとは「何かを手に入れること」ではなく、「あなたがどういう人になるか」なのですと教えて下さったのです。
「あなたがたの光を輝かせ」これは今の時代で言えば、どれだけフォロアーがいるかとか、どれほど「いいね」と反応してもらっているかということではありません。どれだけほかの人を感動させるような立派な行動や影響力があるかというものでもないと思います。イエス様が私たちに「あなたがたの光」といった光とはネットや文字では伝わりません。そこに生きている者から、同じ空間で生きている人へ伝わっていくもの、無理やりでなく、静かにそして優しく。救われた私たちの苦しみに耐える姿、祈る声そして主を愛することばが今日もこの世界のすみっこで輝けますように。人は小さな存在です。そしてその生きている範囲もそんなに広くはないはずです。そんな私たちが生で接することのできる交わりは限らせています。ですから何か大きな事をしようとしなくていいのです。自分の生きている範囲で、自分のあかりを灯しましょう。そして同じく小さな命に生きている隣人にだけ届きますようにと心がけませんか。
 大切なことをもう一つ、それは決して自分があがめられることを願わないということです。あかりを燭台の上に置くのは、私たちの天の父です。そこで輝くようにと置いてくれます。その輝き自体も、父からの賜物です。決して私たち自身からでたものではないのです。光を輝かせることは、自慢になりません。あなたがほめられることではありません。もし誰かに喜ばれほめられたりしたら、私たち自身で祈りましょう。「父よ。私はあなたをたたえます」と。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」とイエス様が仰せになったとおりになりますように。

​2025年5月25日

「あなたは、わたしをだれだと言いますか」 マタイ16章13-26節
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」


 主が本当にお聞きになりたいのは「あなたはわたしのことをだれだと言うのか」とい一点です。「イエス様、あなたは私の救い主神の御子キリストです」と答えたペテロにイエス様は「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは天の父であって、決してあなた自身からでたことではありません」と釘をさしたように聞こえます。
 そして弟子たちにイエス様はエルサレムに行き、苦しみを受けて殺され、三日目によみがえることを示し始めたとあります。栄光のキリスト、たたえられて迎えられるメシヤではなく、殉教の苦しみの十字架にかけられるキリストとしてご自分を示されたのです。弟子たちの思うキリスト像とはまったく違ったものでした。それを聞いたペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことがあなたに起こるはずはありません」とイエス様を非難し始めたのでした。「恵みだから、そんなことがおこるはずはない」、いいえペテロは「そんなことがあってたまるか」と自分の思いを主張しています。人は何と愚かなのでしょう。自分と神を同じレベルに置いているようにしかみえません。
 誰でもわたしについて来たいのな「聖書を学べ」とは言っていません。「善行をして立派な模範になれ」とも主は仰せになりませんでした。わたしについて来たいのなら「自分を捨て」自分の十字架を負ってて来なさい。いのちを救おうとせずに、わたしのためにいのちを失いなさいと言われたのです。私なりに言い換えてみます。
 「自分の思っている幸せと、神さまが下さる幸せは違っていることを認め」「人には不幸せに見えても、自分にいただいた人生として生きる」「いのちを出し惜しみしないで、使い切ってに生きてみよう」というエールに聞こえます。そして全世界を手に入れるよりも幸せなことがある、それはイエス様について行く中で知っていく、キリストご自身を知る恵みではないでしょうか。そんなことが起こるはずがない」と思っていたことが起きるのが人生です。恵みは受けるに価しない者に下さる神さまからの賜物です。一切はきっとこの恵みに違いないのです。

​2025年5月18日

「あなただけが神であることを」  2列王記19章14-19節
「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」 


 北のイスラエル王国を滅ぼしたアッシリアの王セナケリブが今度は南王国ユダヤに攻めこもうとしていました。そこでヒゼキヤ王は神の預言者イザヤに主のみこころを伺ったのです。救いを求めて。その時のヒゼキヤの祈りが今日のみことばです。どうしても自分のためにしか祈れない私たち。でも本当は、祈りが聞かれ救われることで、私たちの信じるお方が恵みの神であることが示されることを願う者でありたい、そう思わされました。
 「救ってください。そうすれば、私たちは感謝します」とい祈りではありませんでした。祈りが聞かれ、命が助かるのは、確かに感謝で喜びにちがいありません。私のような者の祈りはいつもその域を脱しません。自己中心とは言いませんが、結局のところ「自分のために」という願いにとどまってしまっている気がしてなりません。ヒゼキヤの祈りは、私の目を開いてくれた気がします。そしてこの時は、主がその御力でアッシリアの軍を打ち倒してくださいました。その後、ヒゼキヤはバビロンの王に心を許し、結局このことがきっかけでユダヤ王国もバビロンへ捕囚となってしまいます。問われるのは、自分の願いが聞かれなかった時でも、「あなただけが神」とその結果を受け入れることだと思います。
  「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)。弱さ、それは自分の願いがかなえられなかった時、思いもよらなかったことが身にふりかかった時というイメージのことばだと思います。パウロに主がかけられた宝のようなことばです。彼は三度も願った書いていますが、きっと何度も何度も祈ったのでしょう。けれど「祈りはきかれない」という経験をパウロはしました。その時主は「わたしの恵みはあなたに十分である」と言いました。他の人が祈ったらいやされたかもしれない、けれどあなたはいやされなくても、わたしの恵みが十分であることを分かって欲しい、という主のお気持ちがあふれたことばです。忍耐をしましょう。このことばを心にとどめて。ヤコブ5:11「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」アーメン
 

2025年5月11日

「キリストのからだ」  1コリント12章12-27節 エペソ1章23節
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」 エペソ1章23節


 とても不思議に聞こえませんか。教会は復活したイエス様のからだだと言っています。キリストのからだには、イエス様の気持ちや心が満ちています。そしてすべての部分がイエス様によって養われ慈しまれ大切にされるのです。
 パウロは初代の信者たちの間にある差別意識や排他的な感情に気付いていました。だから、コリントの手紙を書いたのです。ユダヤ人クリスチャンは旧約聖書の知識にはきっと富んでいたでしょう。ほかの国籍のクリスチャンたちとは自分は違うと思っていたとしても不思議ではありません。一方異邦人クリスチャンたちも、元ユダヤ教徒だったクリスチャンを古い考えに縛られていると感じていたかも知れません。ローマ市民もいたし、奴隷の身分で救われた信者たちも一緒に礼拝をしていました。パウロは「みなひとり一人が大切な存在」で「互いに補い合って」「苦しみも喜びも分かち合っていこう」と書いています。
 イエス様のからだなる教会、一切のものを満たすことのできるお方の教会ですから何の問題もなかったわけではありません。それは教会の歴史が物語っています。今までどれほどの議論がなさてても、一つの正しい信仰理解には達していません。言い換えればこのように多くの教派が生れたのは、一つだけが正しく他は誤っているというのではないことを物語っているのではないでしょうか。ですから教会は、私たちひとりひとりも、互いを補い合うもの同士として謙虚に自覚することの大切さを思います。ですから他を非難したり自分の正しさを主張する姿勢は神さまに喜ばれないと信じます。
 パウロは「あなたがたにさらにすぐれた賜物を求めて欲しいのです」と言いました。それが13章に示された「愛がなければ」という有名な箇所です。信仰も、預言も知識も犠牲も、もし愛がなければ何もないのと同じだと言っています。教会の中に私たちひとりひとりの中にもし「信仰があるなし」で人を区別しているのなら愛がない状態ではないでしょうか。イエス様はすべての人を愛して十字架に死んで贖って下さいました。信仰でさえ賜物です。主が私に恵んで下さらなかったら、私には何もありませんでした。主の教会ですから主のように思い感じていきたいと強く願います。

​2025年5月4日

「恵みは満ちあふれる」 ローマ5章1-11節
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」20節


 パウロは苦しみでさえ喜びますと不思議な言い方をしました。でもパウロであっても傷みや苦しい気持ちだけでは喜べないのは誰でも同じです。実は彼はその向こうにある、いいえ、そこを通らなければ見えてこない、感じられない希望を見ていたのです。それこそ助け主である聖霊の恵みです。そしてこの聖霊はただただ神の恵みによって私たちみなに注がれています。私たち神の子どもたちがこの世で、苦しみにあずかるのは、懲らしめや罰ではありません。恵みによって、失望から希望へ移されるためです。
 人の罪は福音を信じた者に、自分の愚かさや弱さを見せつけて「おまえはだめだ」と思わせようとします。だから「もっとこうならなければ」というような焦りや恐れのような感情を抱いしまうのも事実です。そこに恵みや愛という安らぎはありません。イエス様の福音で最も大切なことは、「こんな私でもいい」いいえ「こんな私だからいい」とまで言える自己肯定感でした。信仰とは、先ず何を差しおいてもその人のありのままを肯定し、私は私でよいということに安んじることだと思います。
 人は罪のない所にこそ、神さまの祝福はあるような錯覚を持ってしまいがちです。でもそれは幻想です。神のことばははっきりと「恵みは、罪の増し加わったところに満ちている」と言ってくれています。これは驚くべきことです。十字架は救いなのです。いい人間になれというむちではありません。神さまの愛は、罪がない者へ注がれたのではありません。不敬虔な何の働きもない者にこそ受けるに価するのです。神を信じる、それは私のような回復不能なまでに歪んだ者を、迷える一匹として、そのままに肯定して受け入れてくださる方こそが父なる神であると信じるられることです。だから私たちは神さまを恐れなくてもいいのです。
 信仰、救いとは私たちを自由にしてくれます。こうならなければいけない、あれではならない、という世界からこれでもいい、あれもいいと型にはめられない自由です。言い換えれば「人々の神」から「私ひとりの神」へとかえられていくことです。自分の弱さや欠点にこそ主はその御手を置いてくださり、そこでしか味わえない感じられない多くのあわれみを私たちはいただくのです。ですから、あなたらしいところを大切にしてください。今まで恥じて来たようなものすべてが、実は神さまの恵みが満ちあふれるところなのです。あなたはあなたのままでいいよ、とイエス様は今日も言ってくださっています。
 

​2025年4月27日

「あなたはわたしを愛しますか」 ヨハネ21章1-23節
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」


 弟子たちは約束された場であるガリラヤにきています。そこはペテロたちが最初に主にお会いして召されたところです。でもあの当時とは状況が違います。何も知らないで呼ばれるままについて行ったあの頃。いろんな事があってから、イエス様は十字架に付けられました。その時みな主を見捨てて逃げ去ったのです。一番大切な時にペテロたちは自分が願い描いていた生き方が出来なかったのです。
 もし、この夜に魚が取れていたら、ペテロはこのすすめに従えなかったかも知れません。藁にも縋るような気持ちだった彼らは、その声が誰かも知らないのに従いました。逆境は人に聞く耳を授けるのかもしれません。調子がいい時は逆に、聞く耳が持てないのが私たちではないでしょうか。その声のとおりに舟の右に網をおろしました。すると、おびただしい魚が網にかかったではありませんか。主に初めてお会いした日の事が、ペテロの心にまるで昨日のことのようによみがりました。
 湖岸にはイエス様が整えたパンと魚がありました。きっと静かな交わりだったはずです。そしてイエス様がペテロに問いかけます。「あなたはわたしを愛しますか」。イエス様はあえて三回聞きました。あの日ペテロがご自身を三回拒んだようにです。「こんな人は知らない」と三回言った自分は、果たして主を愛すると言えるだろうかときっとペテロは感じていたに違いありません。過去の失敗や過ちは、私たちに愛することを躊躇させます。「死んでも従う」「ほかの者が見捨てても、私だけは最後まで」と言ったあの日の事がペテロのたましいを揺さぶっていました。主は言いました。「わたしの羊を飼いなさい」。イエス様を愛する、それは主の愛する者を愛することでした。私たち罪人が栄光の主を愛する、そんなことができるのでしょうか。
 誰でも自分が行きたい所でしたいことができたら幸せだと思うだろうし、そんな生き方をしている人を、みんなが羨ましがるでしょう。そうのような人生を歩む人もいるかも知れません。でも、もしそうならなかったとしても、私たちの人生が失敗だったと決めつけることもしないでいいのです。うまくは言えませんが、「行きたくない所でも生きる」ことこそ、イエス様がくださった永遠のいのちの生き方だと信じます。「生かされている」と信じているのなら、そのように生きていきませんか。上手でなくてもいいのです、下手でもかまいません。ここが私の生きる道と信じて従っていけたらいいですね。
 

​2025年4月20日

「一番聞きたかったことば」 ヨハネ20章1-29節
「平安があなたがたにあるように。」19節


 空っぽの墓も駆けつけたペテロ、ヨハネには「だれかが主を取って行った」ことにしか思えませんでした。そして復活したイエス様を目の当たりにしてその声を聞いて会話までしているのに、マリヤはその男性が愛する主であるとまったく気付けません。そんな彼女にイエス様は「マリヤ」と言いました。聞き覚えのあるその声に彼女の目は開かれます。私がイエス様はよみがえったと信じられたのは、きっと主ご自身が私をあわれんで「声」をかけてくださったからに違いありません。証拠や理屈ではなかったのです。ただただ主の恵みとあわれみのゆえです。
 復活したイエス様はその日の夕方、ユダヤ人を恐れてかぎを堅くおろしていた弟子たちの部屋に来られ、「平安があなたがたにあるように」と言って下さいました。一番聞きたかったことばを会いたかったお方から聞けること以上に、幸せなことはありません。私たちは復活したイエス様に何を求めているでしょうか。問題や悩み事を解決してくれることでしょうか。でも本当は問題や悩みの中にあってさえ「これでいい」と思える、そんな平安を持てたらどんなに幸いでしょう。救いは「慰め」です。
 そんな弟子たちの中で一人だけ「私は信じません」と言い張る者がいました、トマスです。それから一週間が過ぎるころ、再びイエス様がこの部屋に来ました。そしてトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言って下さいました。「証拠がないからとか自分で確かめられないから信じない」と言わないで、そのまま「信じさせていただけるまで待っていなさい」と私には聞こえます。自分のペース、自分の要求通りででなくてもいい、主が私をあわれんで復活の信仰を下さればそれでいい、このくらいの大らかさが必要です。
 信じる、それは見えたから証拠があるから、うまく説明できるから信じるのではありません。見ずに信じる、たとえ思い通りにならなくても、信じていることの幸いをもっと大切にしたいものです。復活したイエス様が弟子たちに最初に言った「平安があるように」ということの祝福を感じましょう。パウロは信じた者はイエス様とともに復活したと言っています。信仰者の復活は聖書の教理だけではありません。私たちは死んでも生きるのです。「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」とダビデは書き残しました。どうかこの世にあっても、みことばで復活する私たちであり続けましょう。
 

2025年4月13日

「彼らをお赦しください」ルカ23章26-43節
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 1ペテロ2:24


 パリサイ人や律法学者たちが罪に定めようとする中で、イエス様は一言も自分を弁護なさいませんでした。加えて総督のピラトもさまざまな証拠をさぐりましたが、イエス様には一つの罪も見当たりません。彼はイエス様を釈放しようとまでしたのです。まるでイエス様ご自身が十字架刑に処せられることを望んでいるかのように感じます。 
 この何時間か前、イエス様は弟子たちとゲッセマネと呼ばれる園で祈っていました。「父よ。この杯をわたしから去らせてください。けれどわたしの願いではなく、あなたの思うとおりになさってください」と告白しました。イエス様は私たちと同じように試みを受けられたのです。それは悩みと苦しみの極地でした。この苦しみを通してイエス様は、私たちがこの世で困難を味わうときにも同情し共感し寄り添ってくださるお方となられたのです。そして主は父のみこころにままにと立ちあがって、ご自身をはずかしめる者たちの手に捕らえられたのです。
 自分が何をしているのか分からない時、人はこんなにも残酷になれるのですね。恐ろしいというよりも悲しいほどです。私たちはいつも自分の思う側からしか物事を考えられません。つい前日まで「主よ、主よ」と言って慕っていた人々が、手のひらを反すように「十字架につけろ」と叫んでいます。私は自分のしていることが分かっているのかと思います。でも分かるはずがありません。それが罪人だから…そして続けてイエス様はこう祈りました。「父よ、彼らをお赦しください」。
 救い主イエス・キリストと呼ばれてています。救いとは赦しとは何でしょう。貧しさからの脱出か?苦痛からの癒しか?悩み絶望からの開放か?いいえ、違います。救いとはさまよっていた者が、その創造主のもとに帰ることです。その主のふところに帰るのは「こんな私が赦されるのですか」と真実に言える者です。正しい者、親切な人、ご立派な宗教家や偉人が救われるのではありません。ただ「こんな私でも赦されるのですか」と主の前に言えるかどうかです。
 救い主イエス・キリストの救いって何でしょうか。極端なことを言えば、この犯罪人は十字架から降ろしてもらうことはかないませんでした。でも「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と主に言われました。イエスの救いは「それでもともに」という寄り添いです。羊のようにさまよっていた私たちが、自分のたましいの牧者である方のもとに帰ることです。さあ、あなたも赦されませんか。あなたはあなたであっていいと受け入れてくれる父と御子イエスの救いを受け入れませんか。

​2025年4月6日

「何度まで赦すべきでしょうか」 マタイ18章21-35節
互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 コロサイ3:13


何度まで赦すべきでしょうかと聞いたペテロにイエス様は「七度を七十倍するまで」とお答えになりました。でもイエス様は490回でいい、と言っているのではありません。数えてはいけないのです。相手を赦してやったと思うことの危険を感じます。赦す、それは相手にしないことではありません。赦すことは、相手を罪に問わないことでもありません。私たちは赦し合わなければ、生きていけないのです。自分が誰かを赦すと同じくらい、実は自分も誰かに赦してもらっています。赦せる人は、聖いから赦せるのではありません。自分が赦されていると感じている人が、他の人を赦せるのです。
 「主があなたがたを赦したように」と言われています。大切なのは、みながイエス様に赦されている存在だという大いなる真理です。主イエスがお赦しになった人を、同じ罪人の私が赦さないのはどうかしています。私が赦されているように、あの人も赦されているのです。互いに関わり合い、労苦しながら生きている者同士です。不満が心に湧きあがったら「主があなたがたを赦してくださったように」ということばを思い出しましょう。
 私を罪に定めよう、赦そうとしないのは自分ではないかと感じるのです。またこんな失敗をした、何度同じ過ちや罪を犯すのか、あの時、何であんなことをしてしまったのか…そんな後悔や自己嫌悪に苦しむ私たちです。いいですか、みことばを聞きましょう。「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです」。誰ももうあなたを罪に定めることのできる者はいません。どんなに自分を自分が責めても、イエス様は何度でも父に「この人がもう自分を責めないでいいように」ととりなし続けておられます。だからどうかもう、自分を責めないで、主が赦してくださったようにご自分を赦してあげませんか。それでいいのです。大丈夫です。 

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