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「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

​2024年11月17日

「彼らをお赦しください」ルカ23章32-43節
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしてるのか自分でわからないのです。」


 何をしているのか自分でわからない、イエス様がこう仰せられたのは、二人の犯罪人のためだけではありません。ご自分を十字架に釘で打ちつけている兵士たちだけのためではもありません。自分のしていることが分かっていない私たちのためです。お詫びしようという気持ちがなく「自分は悪くない、間違っているのはあの人だ」といつでも考えてしまう人です。「私は自分がしていることをわかっているだろうか」と一度、冷静になって考えてみなければイエス様の十字架は、どこか遠い存在になってしまいます。
 そんな人たちのために「父よ。彼らをお赦しください」と祈られたイエス様。本当なら私が「父よ。私を赦してくださ」とお詫びしなければならないのに、私はそれができない、自分で何をしているのか分からないから。そんな私のために主は父に詫びてくださったのです。
 「自分を救えないくらいなら、どうして他の者を救えるのか」というのが彼らの言い分です。人とは何と怖ろしいものでしょうか。自分のために祈っている方にむかって罵詈雑言、誹謗中傷の極みです。大切なことはイエス・キリストは自分を救うために来たのではないのです。自分で何をしているのか分からないで罪を犯している人々を救うために来たのです。「私が悪かった、赦してほしい」とその一言さえも言えない、心に思い浮かばない者を救うためにです。だからイエス様は私たちに変わって父に赦しを請うて下さいました。それも尊い祈りだけでなく、何と私たちが支払うべき罪の代償を十字架でお支払いになったのです。
 でもこの場面にたった一人だけ、主の祈りに心を通わせた人がいました。彼だけは自分が何をしているのか分かっていたのです。でも手遅れのように見えました。十字架の上にさらされてからなのですから。反省も遅かったか、救いに間に合わなかったのか…でもこの人はこんな状況でもイエス様に望みを託したのです。ハレルヤ何という幸いでしょう。主はこたえてくださいました「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と。死は二人を別つことはできず、それどころか彼は赦されて永久に主とともにいられる救いをいただけたのです。

2024年11月10日

「わたしは良い牧者です」ヨハネ10章1-15節 27-30節
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。


 イエス様はご自分と私たちとの関係を羊飼いとその羊としてわかりやすくお話しになりました。羊は自分の飼い主である羊飼いの声を聞き分けているようです。驚くべきことに、羊飼いはその一頭一頭をその名を呼んで見分けることができたようです。
 もちろん、イエス様は私たちに羊飼いと言う職業の説明をしているのではありません。でもその親しい関係は、私たちと救い主イエス様との間をとてもわかりやすくするものでした。羊飼いはとっても地味な仕事です。それに結構骨の折れることが多かったと聞いたことがあります。羊は病気にかかりやすく弱い動物で、それなのに強情だそうです。そのうえ視力が弱くて迷いやすいのだそうです。ですからどうしても、誰か養ってくれて守ってくれる世話する人がいつもそばにいなければなりません。イエス様はその「羊飼い」が自分であり、私たちは羊だと言ってくださいました。
 イエス様は良い羊飼いは、いざとなれば「わたしもあなたを守るために命を捨てる」と言ったのではありません。イエス様は羊のためにすでにいのちを捨てました。それがあの十字架です。羊、それは罪人たちのこと。いろんな救いが歴史上現われ、宗教がくり返し登場しています。でも羊のためにいのちを捨てたお方はイエス様だけです。もっと言えば、死から復活したのは歴史上、イエス・キリストの他に誰もいません。
 「あなたに永遠のいのちを与え」「あなたは決して滅びることがなく」「だれもわたしの手からあなたを奪い去るようなことはありません」「わたしの父の御手からあなたを奪い去ることはできません」。こんなに安心をくれる約束を私は他に聞いたことがありません。今、その声を聞いている方々、どうかあなたを呼ぶ救い主イエス・キリストの声に耳を傾けてくださいますように。あのダビデはこう歌っています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません」詩篇23篇。偉大なる神、創造主なるお方が、罪人の世話をする側におつきになったのです。驚くべき恵みではありませんか。このことにまさる福音があるでしょうか。感謝します。

2024年11月3日

「あなたも行って同じようにしなさい」 ルカ10章25-42節
この三人の中で、だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」


 今日は聖書の専門家とイエス様との間で交わされた場面です。彼は「イエスをためそう」としていたようです。「自分は正しい」という意識が、多くの人から真実なみことばへの聞く耳をふさぎ、悔い改めのチャンスを奪っています。
 この人が「何をすれば永遠のいのちを自分のものにできますか」と尋ねると、イエス様は「聖書には何と書いてあるか」と聞き返しました。彼は「神を愛し、隣人を愛する」ことをすれば得られると答えました。いろいろむずかしいことはわきに置いて、根本的な勘違いをお話しします。「自分のものにするために神を愛し、人を愛する」ということで、永遠のいのちを得ることはできません。でも人はそのようにアプローチすることが好きだし、そうできているように見える者を称賛します。けれど神さまは「罪人は主の御前に自分の罪を認め、十字架の赦しを受け入れ信じることで救われていのちをいただける」と仰せです、これが福音です。
 とてもわかりやすいたとえ話です。イエス様は「この三人の中で、だれがこのかわいそうな人の隣人になったと思いますか」と聞いたのです。単に善行をしなさいと命じているのではありません。問題は「自分の正しさを示そう」という人に、「あなたは彼を無視して通り過ぎて行ったあの二人のようではありませんか」と諭すためだったのです。
 「行って同じようにしなさい」とは言いかえれば、「あなたはだれかの隣人になりなさい」と言われているようです。私たちの関心は誰にむかっていますか。自分だけでしょうか、それとも周りの人ですか。もし私たちの心の目が無関心という冷たいものであったなら、悔い改めましょう。イエス様は「正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と仰せです。あなたはイエス様に招かれていますか。

​2024年10月27日

「もう一度、主の宮を仰ぎ見たい」 ヨナ書2章
「私はあなたの目の前から追われました。しかしもう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいです。」


 ヨナは今、大魚の腹の中で心底思っています。「もう一度、主の宮をこの目で仰ぎみたい」と。いろんな経緯で彼は今のみ込まれていました。主からの召しに逆らい、そのみこころから逃れたいと外国にむかう船で嵐に会っていました。
 ヨナは暗やみのなかで「衰え果てた」とき、思い出したことがありました。それは今まで地上で暮らしていた時には感じられなかったことでした。長年忘れてしまっていた主への思いでした。ヨナにとっては幸いなときになっていました。神さまを信じるということは大切なことです。でもそれよりももっともっと忘れてはいけないのは、神と言うお方が私たちひとり一人を心配し、すべてのことを働かせ益としてくださるということです。神さまへの反発を真の従順へ、みこころからの逃避も真実な礼拝へと主はつなげてくださる恵みと御力に満ちたお方なのです。
 ヨナは「感謝の声をあげて」魚の腹の中で、主を礼拝しました。彼が最も望んでいなかった場所で、一番大切なお方をあがめる幸いに浴したのです。私はことばを失ってしまいます。これはヨナだけに起こったことではないと信じます。主イエス・キリストを信じるすべての神の子どもたちに今日もなされている恵みの奇跡だと信じます。私はそしてあなたはもしかすると「魚の腹の中の暗やみ」にいるかも知れません。けれどいいえ、だからこそそこに主がおられるのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいをおそれません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23)まさしく主はこのようなお方であり、私たちはこのように生きるのです。

2024年10月20日

「落ち穂を拾い集めたいのです」  ルツ2章1-13節
「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」


 ルツはどこで知ったのか、イスラエルでは収穫の時に、貧しい人のために畑の麦束すべてを刈り取ってしまわないで、四隅を残し、こぼれ落ちた穂はそのままにするようにと神さまは戒めの中で命じています。ナオミはそのことを知っていましたが、そのみことばに頼って拾いに行こうと思っていなかったみたいです。「どうぞ、畑に行かせてください」ルツは今こそ神の恵みにすがって生きる時と思えたのではないでしょうか。
 母ナオミは一言「行っておいで」と言いました。もちろん「そんな親切な人はいやしない。それにあなたは外国人モアブ人だから、見下されて相手にされない」と思っていたのかもしれません。けれど人がどう思うと、ご自分を頼ってくる者を、ご自分のみことばに期待する者を神さまは憐れまない方ではありません。なんとルツがむかった畑は「はからずも」もっとも良い畑だったのです。
 ルツはきっと「ただで何もしないで、落ち穂だけ拾って帰ればいい」と思えなかったのでしょう。だから、朝から休みもせず、ずっと立ち働いていたのです。その姿は、この畑の主人の目にもとまりました。「これは誰の娘か」「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰ってきたモアブの娘です」。しもべたちは何回も「モアブ」ということばを使います。それはきっと蔑みの意味を強く抱いていたからです。不道徳で不信仰な人間、神の祝福とは無関係な者たち…でもその娘が抱いていた信仰、生ける主への信頼と従順に、私は心を打たれます。
 神さまはご自分を信じて生きる魂をいつくしんでくださいます。ボアズは「ここから出て行ってはいけません。そばを離れないで、ここにいなさい」とルツに言いました。私にはそのことばがイエス様からの自分へのメッセージに聞こえます。「わたしから離れてどこへもいってはいけない。わたしはあなたを守りとおす」と。ルツは言いました「どうして親切にしてくださるのですか」。ボアズは自分ではなく、あなたが信じる主からの報いだと言いました。どうか私たちも主イエス・キリストに「あなたはどうしてこんな罪人の私にこんなに良くしてくださるのですか」と言えますように。

2024年10月13日

「主よ、もう十分です」  1列王記19:1-18
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」 1テサロニケ5章16節
 


 多くのことではありません。神さまが私に求めているのはこれだけです。あまり難しく考えないで、喜べることを見つけ、小さなことから祈り始め、どんなことも当たり前と思わないで、その恵みをありがたいと思えますように。このように生きられたらどんなに幸せでしょう。
 「主よ、もう十分です。いのちを取ってください」預言者エリヤがこんなにも弱気になっています。ひとりで450人のバアルの預言者と戦い、主の栄光のために信仰で立った彼が、何でこのようになってしまったのでしょうか。それは「イスラエルの誰ひとり自分のように主に仕えようとしない」という落胆です。自分が熱心であったからこその失望でした。「自分はいったい何をしてきたのか」という気持ちを私たちも抱くことがないでしょうか。
 そんなエリヤに届いた神さまからのメッセージはとてもシンプルはものでした。「起きて、食べなさい」。神さまはエリヤのことを心にかけていてくださいました。そして彼に食べ物と休息をくださり、その後で主ご自身の口からことばをおかけになったのです。主は「信仰はどうした、何でそんなことでへたばっているのか」といって責めたりはしませんでした。エリヤの回復に合わせながら、何と遠く離れた神の山ホレブまで連れていってくださいました。四十日四十夜かけてひとりの旅は続き300kmほども歩きました。
 神さまに「この山の上でわたしの前に立て」と言われたエリヤは頂に立ちました。激しい風は岩をも砕きました、地が揺れ動き、火も燃え盛ったのですがそこには主はおられませんでした。その直ぐ後に、彼の耳にかすかな細い声が聞こえたのです。エリヤを召して導き用いた下さって来た主なり神のお声です。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく」。言い換えれば、「エリヤよ。おまえだけではない。わたしはおまえと同じように歩む者たちを残している」と。神さまは私たちにも声をかけています。だから聞く耳を持ちましょう。そのかすかな御声を聞き逃しませんように。

2024年10月6日

礼拝メッセージ 「必ずそれができるから」 民数記13章-14章
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 ヨハネ16:33


 福音はいったい誰のものかと思う時があります。この世に不信仰を持たない人などいません。神さまは弱気で軟弱な者に勇気を平安のうちに授けられると信じます。主は勇敢であれと言いました。主は患難の中でも圧倒的な勝利者になると約束くださいました。患難を無くするのではなく、その中で生きると弱き者の心に湧きあがる静かな平安と言う名の神の国です。
 民数記から、信仰と不信仰のあいだを生きてる姿を見てみましょう。出エジプトしたイスラエルはこの時、約束の地カナンのすぐ手前まで来ていました。人々は代表を選んでその地の偵察をしました。その土地のぶどうを持ち帰りましたが、その大きさは驚くべきものでした。でも10人は上っていくのはやめようと言いましたが、二人だけカレブとヨシュアは「行こう、必ずできるから」と言ったのです。民は10人の報告を聞いて「エジプトに戻ろう」とまで言い出しました。ここから40年間の荒野の旅が始まります。その期間は神さまがイスラエルを生かしていることを経験していく期間となりました。
 私たちが学ぶべきはこのふたつの思い、見方はいつも私たちひとり一人の中にあるという事実です。どちらか一方だけという人はいません。そしてもう一つ大切なのは「ヨシュアとカレブ」は、不信仰な人々とともに40年間荒野を旅し続けたということです。決して自分立ちだけで先に行くとか、荒野での旅を無意味だと考えたりはしませんでした。
 私たちが生きているこの人生はイスラエルが旅した40年に重なって見ませんか。信仰に奮い立つこともあれば、何と弱く不信仰な自分の姿に失望したりします。けれどイエス様はそんな私たちに「あなたがたはこの世にあっては患難があるけれど勇敢でありなさい」「そして「その中にあってわたしによって圧倒的な勝利者になる」とまで仰せです。だから苦しみや弱さを恥じずに主のみこころの中を、勇気をもって生き続けませんか。ともに導かれながら。あの雲と火の柱は、聖霊と聖書のみことばです。さあ勇敢でありましょう。

2024年9月29日

 「わたしがいる所に、いるべきです」 ヨハネ12章20-26節
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。


 この日ギリシャ人が幾人かが神殿で礼拝をしてからイエス様に会いたいと弟子に願いました。いつの時代でも、有名な時の人に会ってみたいと思うのが常です。でもイエス様はこの時、とてもシビアなことを仰せになりました。それが今日のみことばです。
 「栄光を受けるその時が来ました」これを聞いた人々は期待しました。「いよいよこのお方がダビデの王座におつきになる」。栄光、それは権力を握り治めていく姿です。でもイエス様は人々の抱く「栄光」とは、まったく異なる光景を描いて見せました。それが、一粒の麦の話しです。
 「死ねば、豊かな実を結びます」当たり前のことなのにイエス様が言うととても心を打ちます。麦粒を地に蒔かなければ、一粒のままです。でも地に蒔かれれば、その一粒が何倍にも増えていくのです。人々が栄光の主に願っていたことは、イエス様はそのまま変わらず王になることです。でも主ご自身は、栄光とは地に落ちて死ぬことだと言っておいでです。これこそイエス様が世に人として来られたたった一つの理由でした。十字架で死ぬためです。そして豊かな実とは、イエス様を信じて救われる人たちのことでした。
 これは、イエス様の十字架を私たちに伝えていると同時に、私たち自身の生き方について教えてます。だれでも自分のいのちは、自分のものとして意識せずに生きてます。なのになぜこんなにも生きづらいのでしょう。もしかすると私のいのちは私のものではなくて、私の好きなように使ってはならないのかもしれません。私にとって、あなたにとって今日のみことばはどうですか、何か感じるものはありますか。「わたしのいるところにあなたもいなさい」さあ、どんな生き方をしてイエス様に答えますか。

​2024年9月22日

「わたしのところに来なさい」 マタイ11章28-30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。


 多くの人が何かを求めて教会の門をたたきます。人生に行きづまって解決を求めているかも知れません。重い病に苦しみその傷みや苦痛からのいやしを求めています。自分の犯した罪のために深い良心の責めからの赦しを求めている方もいるでしょう。
 ここでイエス様は「わたしのところに来なさい」と人々に仰せになりました。イエス様は私たちに新たな重荷を負わせる方ではありません。「あなたがたを休ませてあげたい」これが、イエス様の願いです。
 イエス様は人々と交わり、時間を過し食事をしていました。いつも周りには疲れた人や重荷を負った人がいたのです。24時間365日、イエス様はともにいてくれたし、誰のことも拒むことはなさいませんでした。貧しい人も身寄りのない者も病をもった者も、一人として追い返される人はいなかったのです。
 わたしのところに来て、いっしょに生きていきましょう。そしてわたしのことばを聞いて学びなさいと仰せです。来て、それはイエス様の声が聞こえる近くにいることです。そして「わたしのくびきを負って」とは、親しくいっしょに離れないで生きていきましょうということです。最後に「わたしから学びなさい」、勉強ではありません。みことばを聞いて、信じて生きてみることです。
 ここに福音があります、良き知らせがあります。よみがえった主の御許近くで声を聞き、ともにイエス様が生きてくださる、そんな生き方があります。それは「信仰」です。イエス様はあなたを呼んでいます。わたしの声を聞きなさい。いっしょに生きていこう。神さまが恵み深いお方であることを学び(経験し)もっと信頼していくとき、私たちのたましいに安らぎがきます。主の御声が聞こえましたか。

2024年9月15日

「自分の宝は、天にたくわえなさい」 マタイ6章19-34節
自分の宝は、天にたくわえなさい…あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。


 イエス様は貯蓄のことを言っているのではありません。この話しは、人が誰を信頼して生きるかということを主は語ってくだいました。「地上に宝をたくわえる」と私たちは心配と言う結果を手に入れます。一方で「天にたくわえる」なら心配から救われます。あなたも「心配」からする苦しみから、少しでも解放されたくはありませんか。
 イエス様は私たちに「心配してはいけません」と何度も言ってくれています。大切なのは、人が「心配したからといって、変えられない」という事実です。では私たちはどうしたらいいのでしょうか。「あなたがたの思いわずらいを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と神さまは仰せです。自分で思い悩んで苦しむことから、神さまに思い煩いをゆだねてみませんか。
 イエス様は空の鳥を見なさい、また野のゆりを思い出してみなさいと言いました。鳥たちは生きるのが大変でも心配はしていません。花たちは明日どうなるか思い悩まずに今、精一杯咲いています。それは天の父がみなを養っているからです。それは私たちも同じです。主は「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」と言って下さいました。
 天に宝をたくわえる、それはむずかしいことを行うという事でも、たくさん献金をして天国でおほめのことばをいただけるようにしなさいということでもない気がします。イエス様は「神の国とその義を第一に求めなさい」と教えてくださっています。それは「私はこんなにもよくされている」と思えるように願い求めることです。イエス様は約束しています。「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて備えられる」と。「義に飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるから」(5:6)のみことばが私たちの上に成就しますように。​

2024年9月8日

「天の父が完全なように」 マタイ5章17-48節
「あなたがたが、天の父が完全なように、完全でありなさい。」48節


 「あなたがたの光を輝かせなさい。」それは、まぶしいほど輝く明かりでではなく、どこにも明るさのない時に、そっと静かに輝く燈火のような光であって欲しい、イエス様の私たちへの願いです。それが『幸いな者』のメッセージだと思います。 『柔和な者は幸いです』その人は今が一番良い」と思い、『悲しむ者は幸いです』それは良いことも悲しいことも一切は神さまからの賜物と受け入れ、『心の貧しい者は幸いです』生かされているという点でみな公平と今を納得してこの世を歩むなら、きっとそれが世の光となます。
 右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいと仰せになるイエス様。その一言一言に何も言えず「そうです」としか言えない私たちです。人は黙り、神だけがことばを述べている。そして「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(48節)とまで言ってくださいました。そんなことができるはずがない、それはきっと神の完全と人の完全を同じだと考えているからではないでしょうか。
 神の完全は「罪のない、どこを切っても聖い」というもの。一方、私たちの完全は「神の仰せになることを受け入れる」という意味で完全でいいのではないでしょうか。みことばを聞いたら「その通りです」と受け入れること。「できるできない」が問題ではありません。主のみこころはこうですと受け入れる、それが信仰です。
 イエス様が山から降りてくると、ひとりの人がみもとに来て言いました。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」。自分が律法を守れるとか守れないとかでなく、「主よ、あなたが望まれるなら、私はきよくなれます」これが信仰でした。イエス様はあなたを義とするためにこの世に来ました。あなたの罪を赦すために身代わりに死んだだけでなく、あなたにイエス・キリストの義を与えたいと願っています。信仰とは、神はこのようなお方だと信じることであって、決して自分が何をするかではありません。この人のように、みことばを聞いたら「主よ。お心ひとつで私をそうしてくださいます」と告白していきませんか。私たちは世の光となるのです。

2024年9月1日

「あなたがたの光を」 マタイ5章14-16節
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめらるようにしなさい。


 驚くべきことばです。私たちがこの世界を照らす光だなんて。この光とは、行いではなく、私たちのうちにある心、希望、気持ちのようなもので、それは見せるものではなく、人々に伝わっていく、自然にそれも暖かく、自分にもそうような内なる希望が欲しいと言ってもらえるそんようなものではないでしょうか。
 イエス様は全員を照らす光だと言っています。神さまに造られた人である私たちが生きる上で不可欠な光、そのような思いです。聖書ではそのことを信仰いっています。
 良い行いとはたとえたら「実、果実」です。内なるいのちが私たちの暮らしの中で結ぶ結果、暮らしぶり、姿勢のことではないでしょうか。その生きる姿勢を支える「内なる光」を二つ紹介します。一つ目は「今が一番良い」という思い。もっと別の人生を送れると思っていたのに、思い込んでいた私と実際の今の私の喰い違い が私達を苦しめます。そこで「今が一番良い」と言 われたら、目が覚めるような安堵を味わうでしょう。信仰の慰めはこの手のものです。「今が一番良い」と今を納得することです。二つ目は「すべて神からのものと受けとめる」ことです。人生よいことばかりではありません。うまくゆかないことも あります。思いがけない障害に出会うこと、期待はずれに終る こと、思いうとおりにゆかないこと、運の悪いこともあるでしょう。しかし、それら全てを含めて人生の全体を神さまより与えられたものとして受けとめることです。うまくゆかないことのひとつひとつが解決されてゆくことが救いではないのです。良いも悪いも一切切を込みで、人生を神よりの物と受けとめることです。
 私たちの光、イエス様からいただいた救いと福音の恵みが輝くとき、たったひとつのことだけが成し遂げられます。それは「あなたがたの父をあがめる」ということです。私たち人間や良い行いが称賛されてはなりません。ただ天の父がたたえられることになります。どうか私たちの人生の目標、支え、慰めが「父があがめられる」ことでありますように。

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