top of page

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

​2024年4月21日

「とりなしてくださいます」 ローマ8章26-39
私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとしなしてくださいます。


 イエス様は弟子たちに「父の約束を待ちなさい」と仰せになりました。その約束とは信じる者すべてに助け主が送られるというものでした。
 私たちは祈るべきことばも見つけられずに罪の中で苦しみながら祈ります。ある時は高慢に自己中心な祈りをしているかも知れません。そんな時、父のみこころを知っておられる助け主は、そのみこころから外れて逆らっているのも気づかない私たちのために「彼らをお赦しください」と、とりなしていてくださるのです。
 そして、とりなしているお方がもうひとりおられます。そのお方こそ、よみがえられたイエス様です。「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」と書かれています。イエス様は十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください」と祈ってくださいました。そして今もその祈りは途切れることなく続いているのです。イエス様はペテロのために祈ったように、私たちにもこ祈っていてくださいます。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と。だから私たちは天に帰るまでその恵みの信仰を持ち続けていられるのです。なんという恵みでしょう。
 パウロは私たちに質問しています。「あなたがたを罪に定めようとするのは誰か」。「誰もいない」と彼は答えています。神さまは私たちひとりひとりが納得してほしいと願っています。助けとりなしていてくださいます、深いうめきをもって祈り続けていてくれます。「わたしはすべてのことを働かせて益とする」「わたしはあなたがたの味方です」「すべてのものを恵んでいます」だから、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」とお聞きになりました。そして私たちみなが「そんなことがでいるのは誰もいません」と感謝のうちにこたえて欲しいのです。どんなことがあっても、私たちがどんなに恐れてても、そして私たちが自分の罪に打ちひしがれ倒れても、何をしているのかわかっていなくても、父と御子と聖霊は永遠に私たちの味方です。

​2024年4月14日

「いつも、ともにいます」  マタイ28章16-20,使徒1章1-11
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

マタイ28:20
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」

使徒1:8


 弟子たちは、よみがえっイエス様に何度も会っていただき、その確信を徐々に持てるようになったと思います。けれでも彼らは「礼拝しながら疑った」と聖書に書かれています。その理由は、信仰は疑いを持っていても大丈夫ということ。そしてもう一つはそんな「疑いつつ礼拝している」彼らに向かってイエス様は「わたしはいつもあなたがたとともに」と言ってくださったということです。自分の信仰に「足りなさ」や「弱さ」を持っているほうが、自信満々な独善的な信仰よりもいいと感じます。
 よみがえったイエス様に何度もお会いするたびに、きっと彼らは「今度こそ」イスラエルを再興してくださるものと思っていました。そんな彼らに主は「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」と仰せになったのです。弟子たちの期待は膨らんだに違いありません。
 その父なる神さまの約束とは「あなたがたにもう一人の助け主を送る」というものでした。もう目の前にその時が迫っていると。しかし、イエス様はことばを続けます。「そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」。今こそイスラエルを再興するのではないのですか?地の果てまでって何ですか?証人てなんですか?ペテロやヨハネたちはきっと混乱してしまったに違いありません。そしてもっと驚くべきことが起こりました。
 そう言ってから、イエス様は見ているみんなの前から天に引き上げられ、雲に包まれて、見えなくなられたのです。よみがえられたイエス様はずっとそのまま弟子たちとともにいるのではなく、父なる神の御許へ戻っていかれたのです。「行ってしまわれた」すべての希望は失われたように見えます。でもペテロたちにはまだ残された希望がありました。それは「父の約束」です。主が天に帰らなければ、助け主は来ません。そのすべての信しる者にとっての助け主(聖霊)が来るのを待つことになったのです。そして助け主が来られたとき、信じる者たちは「復活したイエス様の証人」となる力と恵みをいただきます。それは使徒たちだけでなく、ここにいる私たち全員がそうなのです。あなたはキリストの生ける証人なのです、なんという恵みのでしょう!

​2024年4月7日

「わたしを愛しますか」 ヨハネ21章1-17節
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」


 ペテロたちはガリラヤの地に来ています。それは彼らの故郷という理由だけではありませんでした。復活したイエス様が「ガリラヤに行けばそこでお会いできる」とマリヤを通して言って下さっていたのです。
 どこに主はおいでなのだろうかとペテロはきっと思っていたに違いありません。そんな中彼らは導かれるままに湖畔まで来ていました。漁師出身のペテロを先頭に漁にでることにしました。けれどあくる日の明け方までかかっても一匹もとれません、そんな時岸から男の人の声が聞こえます「子どもたちよ。食べる物がありませんね」「舟も右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」。彼らは言われるままに網をおろした途端に、大量の魚が網にかかったのです。その声の主こそよみがえったイエス様でし
 ペテロたちが岸に上がると、そこには朝食が整えられていました。イエス様がご用意してくださったのです。今まで弟子たちはイエス様のもとで、大くの群衆にパンと魚を配ってきました。いつもペテロたちは配る側、仕える側にいたのでした。でもこの日は自分たちのためにだけイエス様は食事を備えてくださたのです。どんなに嬉しかったでしょう。
 イエス様はまるでしもべのように仕えておられます。炭を起こし、魚を焼き、パンを配られました。ペテロたちは最後の晩餐の時のことを今度は思い出していたかもしれません。弟子たちの足を洗い終えたイエス様は「わたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いにそうしなさい」と言いました。愛とはなにもむずかしいことや立派なものではありません。誰にでもできるのに、誰もしないことをすることです。主イエス様はペテロに問いました「あなたはわたしを愛しますか」と三度も。主はご自身が愛する者に尋ねたいのです「わたしを愛するか」と。だから私たちにも尋ねておいでです「あなたはわたしを愛しますか」どうか誰にもできること、でも誰もしないことをイエス様にならってしましょう。それが主を愛すること、主に従って生きることです。あなたの助けを必要としている小さな人がきっといるはず、どうかイエス様に代わって私たちが愛を施す者になれますように。

2024年3月31日

「平安があるように」 ヨハネ20章1-20節
「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。


 目の前にイエス様がいるのに、マリヤはその方だと気づきません。私たちは信じられないことが目の前に起きたとき、理解できません。でもそんなマリヤに復活したイエス様は「なぜ泣いているのですか」と言いました。「ここにわたしがいるのにどうして悲しむのか」と聞こえます。復活を信じられないでいるマリヤにイエス様は「マリヤ」と言いました。聞き覚えのあるその声に彼女の目は開かれます。
 復活したイエス様はその日の夕方、ユダヤ人を恐れてかぎを堅くおろしいた弟子たちの部屋に来られました。復活したイエス様は私たちの閉ざされたこころの部屋に入って来られるのです。イエス様は怒れている原因を無くすのではなく、恐れの中にいるペテロたちの所へ来て一言「平安があなたがたにあるように」と言って下さいました。問題や悩みの中にあってさえ「これでいい」と思える、そんな平安を求められたらどんなに幸いでしょうか。救いは「慰め」です。
 弟子たちの部屋の外の世界はなにも変わっていません。でも彼らはよみがえったイエス様の声を聞いて、十字架の傷のある御体を見て喜べたのです。みなさん、私たちの喜びは主の声をきくことであり、そのみことばに復活のイエス様を感じることです。言いかえれば「みことばの中にキリストはよみがえる」のではないでしょうか。
 不思議なことってあるものです。急に心にイエス様にことばやその方のことで心が満たされてしまうのです。ある日、「私がどんなに動揺しても、イエス様は絶対に揺るがない」という確信と言いようもない平安が私を包んでくれました。またある時は神さまは私たちの味方で、すべてのものを恵んでくださっているというみことばに私は満たされました。まさしくみことばの中によみがえったキリストがおられたのです。平安がみたし、涙が流れたのを思い出します。イエス様は十字架で死んで葬られ、よみがえられたのです。それはあなたのためでした、どうぞお受け取りください。

​2024年3月24日

「父よ。彼らをお赦しください。」 ルカ23章13-45節
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」


 つい一週間前、大歓迎したのに、この日は口をそろえて「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ人々。実は、御子イエス様を十字架で死なせることをお決めになったのは、何と父なる神さまでした。それを知っているから、イエス様はご自分の無実を主張しその御力でこの場から逃れることもなさいませんでした。イエス・キリストの十字架は、見た目には痛ましいものですが、本当は御子と父の揺るぎない愛と信頼、そして従順の姿だったのです。
 ペテロは後にイエス様の十字架の死は「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」死であったと書きしるしています。なぜ父なる神さなは、御子を身代わりに十字架にまでおつけになったのか。それはたった一つの理由です。「赦す」ためです。
「父よ。彼らをお赦しください」イエス様はその祈りの中で、いったい誰のことを思っていたのでしょう。ご自分を苦しめている兵士たち、ののしるパリサイ人律法学者、そんな者は知らないと言った弟子…十字架をながめている者たち全員。いいえまだ他にいます。主が十字架で身代わりになって死んでも構わない、どうしても御父の永遠のお裁きから救ってあげないと思っていたのは、実は私のことそしてあなたのことだったのです。
 私たちは自分で思っているよりも罪深いのではないでしょうか。最近、私はよくそう思います。あの日、カルバリの十字架のうえで祈られたイエス様。そのお祈りの中できっと私にこと思っていてくれたんだと思います。そしてあなたのことも。赦す、それはただ悪いことをした報いとしての罰を受けくてもいいようにするためだけではありません。赦された人は、いつまでも神さまの御手に守られる人になり、イエス様がいつもともに歩んでもらえるのです。あなたは罪を赦されて神のみもとに導かれませんか。

​2024年3月17日

「何度まで赦すべきでしょうか」 マタイ18章21-35節
ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」


 私たちはきっと、赦し合わないと生きられないのです。赦しは「きれいな立派な行ないではなく、生かされている者にとっては、当たり前のこと」です。イエス様があなたを赦してくださったのは、あなたが誰かを赦すためであったのかも知れません。
 「七度を七十倍するほど赦す」これは回数を問題にイエス様はしているのではありません。「赦すチャンスがこんなにも多いんだよ」と主は私たちに言ってくださっていると信じます。「赦す」というのは、相手があなたにとって大切な人なら、変わらずに、左右されずに接することだと信じます。たった一つの罪で、その大切な人を無くしてはなりません。だったら自分から赦した態度で今までと変わらない姿で生きることではないでしょうか。赦す、それは「あなたは私にとってこんなにも大切な人」と告白しているのと同じです。
 イエス様が弟子のみんなにお祈りを教えてくれました。その中に「私の罪をお赦しください。私もあの人を赦しました」とあります。自分の失敗や落ち度を赦してくださいと祈ります。でもその時、自分は他の人の罪を赦しているかと思います。赦していないのに、赦してと言えるだろうかと思います。だからイエス様の教えてくださったこのお祈りをするとき、私は自分は誰かを赦せているかと自問しなければなりません。イエス様は私たちに赦す人になって欲しいのです。まだ赦していないことに気づいてほしいのです。赦すことはやり直すことと覚えましょう。そしてイエス様はあなたの罪を七度の七十倍までもお赦しになります。そのあわれみに感謝し、互いに赦し合っていきましょう。主の恵みで。

​2024年3月10日

「それなのに」 ルカ15章1-2、11-32節
父は彼に言った。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」


 人々はなぜこれほどイエス様にもとに集まってくるのでしょう。いろんな理由があったかもしれません。でも一番は「イエス様の話を聞きたい」というのが彼らの願いでした。
 イエス様の話す一言一句には、ご自身のいのちが通っていたと思います。聞く人の心に響く主のことばの数々。それは主の生き方、そのものがそのことばとなって紡がれていたからだと思います。ことばは話す人んそのものです。言いかえれば、イエス様の話は誠実だったのです。
 聞いていた人たちは、こんな罪深い親不孝者は自業自得だから飢え死にしてもかまわないと思っていたかもしれません。でもイエス様はこの弟が悔い改める方向に話を進めました。そして弟は「父にわびて雇人として家に置いてもらおう。と言い出します。しかしイエス様の口から話される展開は誰も想像できないほうに展開します。なんと父親の方から走り寄り抱きしめて迎え入れてくれたのです。「あなたの子と呼ばれる資格がない」という息子に「一番いい着物を着せて、帰ってきたことをみんなで祝おう」と言ったのです。イエス様は「あなたはなぜこんな罪深い者を受け入れて食事までするのですか」という非難に答えてこのたとえを話されのです。
 イエス様の話はこれで終わりではありませんでした。放蕩したのに迎えられた弟には兄がいました。彼は怒りにふるえ父に「あなたに私は仕えてきたのに、何ももらっていない。それなのになぜ弟にはこんなによくするのか」と詰め寄ります。その時、父が言ってくれました。「おまえはいつも私といっしょにいるね。いいかい私にものは、全部おまえのものだから」と。「私にはないもくださらない」という思いに対して「いいえ、わたしのものは全部、あなたのものだ」と言っている天の父なる神さまを思います。この地上で手に入れるものがどれだけ少なくても、だからといってあなたが天で受ける報いが少ないはずがありません。きっとこの父のことばを聞いた後すぐに、父といっしょに弟の帰宅を祝う喜びの輪の中にいたに違いありません。もっと楽しんで喜びませんか、どんな時も。私たちは神の愛する子どもですから。
 

2024年3月3日

「主よ。ご覧ください」 ルカ19章1-9節
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


 ザアカイはこの日まできっと一度もひとりも自分の家に招いたことがなかったに違いありません。だって自分のしてきた悪事のすべてがそこにあったからです。そんなザアカイのところにイエス様は来られました。
 「きょうは、あなたの家に泊まるから」イエス様はザアカイのこれまでの悪事を知らなかったので、こんなことが言えたのでしょうか。いいえ、主はザアカイのしてきたことのすべてをご存じでした。そればかりか彼の心の寂しさまでご理解されていたと思います。ただ知っていただけでなく、ザアカイを赦してあげたい、救ってあげたいと願っておられたのです。
 多くの人たちがイエス様がどんな方か見ようと集まっていました。期待と好奇心で人々は見ていました。そんな彼らの前で、何とこともあろうにあのザアカイと会話し彼の家に泊まりたいとこの人のほうから願ったなんて。そしてザアカイまで喜んでいるのを見た人々は、ザアカイだけでなく、今度はイエス様までもののしったのでした。
 「主よ。ご覧ください」ザアカイは家に入るなりこう言ってイエス様に自分のこれまでの生き方、悪事の一切を見ていただきました。きっと彼には確信があったのです、「このお方ならすべてを見せてもいい」「見せたからって、怒ってがっかりして帰ってしまうことはなさらない」と。教えでは人は救われません。イエス様だけが罪人を救うことがおできになります。イエス様だから私たちのすべての罪を知っても受け入れ赦してくれるのです。救いとは罪を赦すことです。罪からその人を救い出して新しい命に生きられるように新しくすることです。イエス様は私たちを救うために来られました。私たちの救い主です。

2024年2月25日

「不信仰をお助けください」 マルコ9章14-24節
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください」

 こう祈った人がいました。「私の信仰はどこにあるのか。どんなに深く掘り下げても、空虚な闇があるだけです。もし、神がおられるなら、どうか私を赦してください」。あのマザー・テレサです。インドのカルカッタで極貧の人に精力的に仕えたこの女性は、50年以上も信仰の葛藤と静かに戦っていたのです。愛する主への自分の不信仰に正面から向き合っていたのです。不信仰がないのが良いことではありません。不信仰な自分を認めつつ「私を赦して」と祈り続けることの大切さを覚えます。
 苦しむ子どもの父親がイエス様に「もし、あなたになにかできるなら」と言ったので、主は、「できるものなら」と言うのか」と聞き返されたのです。父親は弟子たちにできなかったことをこのイエスという人はできのだろうか、と心に疑いを抱いていたのです。
 目の前におられるイエス様からの問いかけに子どもの父親は、すぐにそのみことばの意味を理解し悔い改めました。そして目の前のイエス様に叫ぶように言ったのです。「私は信じます。どうか私の不信仰をお赦しください」と。あのマザー・テレサほどのことをなした人でも、このあわれな子を世話してきた父親も、そして私たちも同じです。イエス様を信じて歩んできた年月のなかで幾度となく、自分の不信仰に苦しみ倒れ失望してきました。何がいけなかったのか、自分の信仰はなんでこんなに弱いのかと。でも今日、父はイエス様を前にして言うことがでいました。「私はあなはが何でもできると信じます。あなたを信じられない私を助けて赦してください」。
 皆さん、私たちが信じる神さまの御手の中にあると言うことは「罪が増し加わったところには、恵みも満ちあふれました」と信じることです。おかしいと言われるかもしれない、罪あるところに恵みはないと。いいえ、罪があるところに恵みはあるのです。そして不信仰のあるところに、信仰の恵みも満ちあふれるのです。「私の不信仰を赦してください」と信仰をもって主に祈りましょう。

2024年2月18日

これがわたしの戒めです」 ヨハネ15章9-12節 1コリント13章
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 イエス様は弟子たちに「わたしにとどまっていなさい」そして「もし、あなたがたわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」と言っておられます。戒めは私を主のもとにいつまでもおらせるためのもの、それを守るなら主の愛のうちにとどまれるのです。
 ペテロたちにとって、戒めといえばモーセが神からさずかったもので、イスラエルの民が約束の地で生きていくための事細かな律法です。けれど律法では人は安心できません。不安と恐れだけしか与えなかったのです。つまり生きていることが恵みであるという事実に気づくまで人を安心させない、それが律法です。しかし、今救い主がおられ、語っています。「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」。
 イエス様は私たちに互いに愛し合いなさいと仰せになりました。でも私たちは愛のない生活みや奉仕、行いをしてしまいます。愛がないのに、愛があるかのようにふるまうことがあって欲しくない、イエス様はきっとそう思われたにちがいありません。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は人をねたみません。愛は自慢せず、高慢なりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
 愛などこれっぽちもない私に主は「互いに愛し合いなさい」と言って下さいます。私はどう答えたらいいのでしょう。「だめです、主よ。出来ません」と言ったらきっとイエス様は「あなたにはできないことも、わたしにできないことはないんだよ」と言って、愛する心、愛し合う人を恵んでくださると信じます。信仰と希望を抱きつつ、最後まで愛に導かれたい、ただただそう願います。

2024年2月11日

「ただ恵みによって」 ローマ3章21-26節
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。


 神さまの救いこそ、一人ひとりの悲哀に届く暖かなものです。ですから皆さん、教会は多くの人たちのための救いではなく、あなたの隣りにいる一人のためのイエス様の救いをお届けしましょう。イエス様は言われました「この小さい者たちのひとりが滅びることは、あなたがたの父のみこころではありません」(マタイ18:14)と。神さまは何もできない者であっても、その罪に苦しみ克服できない者であろうと何の隔てなく差別なく救いたいと願っておられます。決して宗教的で良い行いが伴っている者だけを救おうなどとは言っておられません。
 ですから自分で納得できる信仰をお持ちください。それこそ私ひとりに届く暖かさです。あなた一人に届く神さまの愛を大切にしませんか。「この信仰が正しくて、あの信仰は間違っている」などということはありません。正しいのはただお一人、主なる神さまだけです。信仰に正しさや人数の多さを求めないで、どうか自分だけが感じる神さまの愛のあたたかさ、それが味わえる場を捨てないようにしましょう。
 私の救われる前のことを話すと驚かれます、いいえ正確に言えば軽蔑されて失笑されます。でも同じ救いを経験された方には「そんなあなたでも主は救ってくださったのですね」と言ってもらえます。確かに愚かでした、不敬虔というなら自分こそそんな者です。でもそんな神を恐れず生きていた私、そんなひとりを救おうと願っておられた方がいたなんて。それが私があの日教会でであったイエス様です。
 きっと神を信じるとは、「私は私のままでいい」と自分自身を受け入れることから始まると思います。こんなんじゃだめだ、もっとこうならなければ…いつまでそう言っていても救われません。それは何も反省しないのではありません。弱さは認めます、開き直っているのでもありません。ただイエス様が愛すると言ってくれているのなら、私もそんな私を受け入れても良いのではないかと思うのです。私が言っていることとあなたの信仰は違うかもしれません。でも私に合わせる必要はありません。私たちは一人ひとりみなが違っていていいのです。ただイエス様の愛を、この私ひとりのための愛を暖かさを大切にしよう。

2024年2月4日

「信じる者になりなさい」 ヨハネ20章19-29
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


 「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。トマスは別にイエス様の釘の跡ややりの傷跡を見たかったのではないのです。ただ自分が信じたいと思っていたのです。私たちの信仰はどうでしょう、自分のものですか?イエス様はあなただけの主ですか?それともみなの神、みんなの主ですか?信仰には自分は信じるという確信が大切です。信じる仲間がたくさんいるからとか、多くの人が賛成しているからといいった理由は、決して私たちに信仰の確信をもたらしません。
 「わたしは決してあなたを捨てない」創世記28章です。ヤコブに現れた全能の主なるお方のメッセージです。ヤコブは自分が犯した失敗のゆえに、また自分の弱さのゆえに、アブラハムの神が自分の神となってくださっていることに多少のためらいを感じていたかもそれません。けれども、彼の心は、アブラハムの神が依然として自分の神であり続けることを知ったとき、お驚きあわて、恐れおののいたのです。ヤコブはどんなに喜び、命の息を吹き返したでしょうか。キリストの神は私たち一人ひとりに対して、まさに自分の神になってくださる方です。しかもそれは、神さまのご希望でもあるのです。驚くべき恵みです。
 私たちひとりひとり全員がイエス様を「私の主、私の神」と確信をもって告白できる日を、イエス様ご自身も望んでおられます。「こんな私のような者のために神は私だけの神となってくださるなんて」その時、私たちはみなひざをかがめ「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と告白し礼拝をささげられますように。天の父は、あなたの父となることを願い、御子イエス様さえも死に渡されたのです。どうか信じない者にならないで、信じる者となってください。

bottom of page