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「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

2025年12月14日

「あなたのために祈りました」ルカ22章24-34節

「わたしは、あなたの信仰がなくならにように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」


 イエス様の前で、それも最後の晩でも弟子たちはこんなでした。メシヤの弟子として召された彼らの興味は「誰が一番偉いか」ということで占められていたのです。父のもとに帰って行く時が来たことを悟っておられるイエス様にとって、彼らの議論はどうのように聞こえていたのでしょうか。イエス様は「しかし、わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」と仰せになりました。この際に、弟子たちの足を洗われたのだと思います。
 サタンが弟子たちをふるいにかけることを父に願って、父がそれをお許しになったと言うのです。サタンの誘惑も実はペテロたちにとって益とせんと御父は許したのです。ふるい、それはきっと自分の愚かさを弱さを痛いほど知らされるためのものだと思います。それによって救いが取り去られるとか、信仰がなくなるというかけ引きでは決してありません。ただ、「私はそんな者でした」と、ありのままの本当の自分と言う者を受け入れるしかない状態を経験することではないでしょうか。「こうありたいと願っている私」ではなく、素の、自分も見たくない我が身を知らされる時です。
 ふるいにかけられるペテロのためにイエス様は「信仰がなくならいように、あなたのために祈りました」と言って下さいました。ふるいにかけられないように祈ったのではなく、それでも信仰がなくならないようにとお祈りくださったイエス様です。あなたは何を祈っていただきたいですか。
 サタンは場面を設定することは得意です。でもそこでペテロがどうするか何を言うかは、ペテロ自身です。イエス様はその状況をすでにご存じでした「あなたは三度、わたしを知らないと言います」。それがペテロです。信仰があれば、死であろうと覚悟はできていますと思っているペテロ、けれど信仰の恵みは「三度も知らない」といってしまう自分を受け入れることでした。そしてたとえサタンの思う壺に落ち込んでも、一番見たくない自分を「ああこれが私なんだ」と涙することになっても、主イエスの祈りが彼を支えます。最悪の経験も、もっとも恵み深いあわれみの時となります。主イエス様の恵みは、私たちを試練や苦しみにあわせないのではなく、たとえ信仰を失うようなことをしてしまっても、なお決して引き離されないような、恩恵です。だから、生きることに恐れを抱かなくてもいいのです。

2025年12月7日

「互いに足を洗い合う」 ヨハネ13章1-14節
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。」 


 ペテロたちは毎年行ってきた過ぎ越しの食事を今年もすることに何のためらいもなかったと思います。でも今日はいつもと違ったことが始まります。何とイエス様が自分たちの汚れた足をその御手をもって洗い始めたのですから、驚きです。
 ペテロはイエス様が自分の足を洗おうとした時「決して私の足を洗わないで下さい」と拒みました。ペテロはイエス様の足を洗わなかった自分の非を示されたように思ったかもしれません。すると主は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしを何の関係もありません」といったのです。自分の良い所、格好の良いものだけを見せる関係ではなく、隠れた弱さ汚れもお見せする、そんな関係を望まれたのではないでしょうか。「ペテロ、わたしは決してあなたを責めているのではありません。わたしのおまえへの思いを受け取ってほしいのです」そう私には聞こえます。
 「互いの足を洗い合う」とはどう生き方を示しているのでしょうか。私はこう思います。過ちを犯してしまった人をなお見限らないで今までと同じように寄り添い合って生きていくこと、そうしようと努力することだと信じます。イエス様はペテロに「あなたの足が汚れているから関係ありません」と言ったのではありませんでした。ペテロがその汚れた足を洗わせないなら、関係ないと言ったのです。キリストとの関係は私たちの聖さではありません。私たちの罪のない生活が主との交わりを保っているのでもないとさえ思います。かえって、私の弱さ醜さ汚れ誘惑、不信仰という「汚れた足」こそ、私を主に結びつけ、主の御手が触れていただけるところだと信じたいです。
 イエス様はみなの足を洗い終わるとお話しをしてくださいました。その中でペテロに「あなたはわたしを三度、知らないといいます」というショッキングはことを言われました。ペテロの驚きと落ち込みはどれほどだったでしょう。もう立っていることができないほどです。でもそんなペテロたちに主は「あなたがたは心を騒がしてなりません。神を信じ、またわたしを信しなさい」と言ったのです。もうペテロにはこのみことばにすがる他ありません。きっと私も同じです。どんな状況になても、私がどんなことをしでかしてもイエス様はこう言うでしょう。「わたしはあなたを愛している。大丈夫、わたしを信じなさい。わたしがあなたを贖い赦したのです」と。
 

​2025年11月30日

「私の主。私の神。」 ヨハネ20章24-29節
トマスは答えてイエスに言った。「私の主、私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」


イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられた日から八日後の日曜日に起きたことです。ペテロたちは口々に「私たちは主を見た」とトマスに言いました。その場にいなかったトマスは少し強情になったのか「私はこの目で見るだけでなく、手に触ってみなければ信じない」と言っています。
知識や情報なら誰が言ったかなんて問題ではありません。地球が丸いことも重力があることも学校で学べばそれでいいのです、それが知るということです。でも信じるってことは、それでいのでしょうか。自分の納得することが、そしてそのことに平安を感じられるかが信じること、信じる者の幸いだと思うのです。信仰者にとって平安(今が一番いい)こそ、救いと言っても言い過ぎではないと思います。トマスは自分で納得したかったのです。
 救いは信仰を通して恵みのゆえにいただくものです。自分の努力や善行ではありません。それと同じように、救いの確信、復活への納得も、みことばのすべての慰めも恵みのゆえに味わうものだと信じます。トマスの平安はどのように得られたのでしょうか。「私たちは見た。私たちの主、私たちの神」ではなく、「私の主、私の神」とトマスが告白できたのは、やはりそこにイエス様が来てくださったからでした。救いも救いの平安も恵みなのです。
 私たちの人生はみなそれぞれユニークです。同じものはふたつとありません。ですから神さまの私たちへの働きかけもきっとみなひとりひとり違っているのではないでしょうか。いいかれば私たちひとりひとりは「私たちの神」ではなく「私の神」「私だけの主」を持っても良いのではないでしょうか。そして神さまも私の神、あなたの神になることを願っていると信じます。
 私は長い間「救いの確信」の持てないでいました。きっと「私たちの神」を知ってはいましたが、私だけの神としての平安をまだ知らないでいたのです。でも憐れみ深き十字架の主はある出来事を通して「私の主、私の神」となって下さいました。「わたしは大丈夫だ、わたしは揺るがない」という声を聞いたのです。私たちに弱さや罪があるのはなぜでしょうか。きっとその弱き所こそ、神さまの愛が届く場所ではないかと思うのです。罪の増し加わるところに恵みもまた増し加わったとあるようにです。どうか私たちの主ではなく、私の主と言えますように。そしてそれは主の願いでもあることを信じて行きませんか。

​2025年11月23日

​「復活のいのちに生きる」 創世記22章1-14節
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6章4節


 アブラハムは神の約束を信じて来ました。「あなたから生れる子孫からメシヤがでる、そしてすべての人々は彼によって祝福される」でも、同じ神が「あなたの子イサクをいけにえとしてわたしにささげなさい」と言ったのです。ご自身が語られた約束をご自身みずから破ってしまうように聞こえます。それもご自身を信じるアブラハムに命じたのでした。罪人の頭では矛盾しているような、相反するようなご命令…アブラハムも同じであったはずです。でも彼に主のご命令に従わせたものは何だったのでしょう。
 新約聖書へブル人への手紙には「彼は神がイサクをよみがえらせてくださる」と信じていたと書かれています。「復活のいのち」を信じて、アブラハムはイサクをささげることができたのです。その信仰はアブラハムへの主なる神からの恵みでした。驚きです。彼はそこまで神を信じられたのでした。「羨ましい」と正直、私は思います。でももっと大いなることが、私たちに起こっていたとしたら、どうでしょう。
 イエス様を信じた者は、主とともに死に葬られ、主とともによみがえらされた、とパウロは語っています。(ローマ6章)。キリストの死と復活は、私のためであったと同時に、私はキリストとともに死に復活したのです。私たちは復活、よみがえりとは死後でなければ、味わえないもののように思ってしまいがちです。けれど生きていてそのいのちにあずかれる幸いをイエス様は私たちにくださったのです。この地上をキリストとともに生きるそれが、私たちの新しい歩み、よみがえりのいのちに生きることなのです。
 イエス様は私たちにご自分について来て欲しいと願っておいでです。そのことを弟子たちに語ったのがマタイ16章に書かれています。「いのちを救おうとする者は失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」という不思議なことばです。私たちはどうしても惜しんで失うことが多いのではないでしょうか。失って手放さなければ見いだせない、いのちがあります。それこそ復活の命です。アブラハムはイサクをささげて取り戻しました。御父は私のような罪人を我が子にしようと、愛するひとり子イエス様を十字架で失いました。でも復活されました。主は、私たちに願っています。復活の命に生きて欲しいと。ご自身とともに生きて欲しいと。さあ、そのお気持ちに応えませんか。

​2025年11月16日

「わたしを仰ぎ見て救われよ」ローマ4章1-5節 イザヤ45章22節
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」


 自分が救いの確信をもてるようになるたには、長い時間を要しました。これで本当に救われているのか、と何度も思ったものです。でもその時間はとても大切なときでもありました。結局、私は自分の中には救いの確信となるような変化も行いもなかったのです。でも恵み深い私の神は、救いが恵みであること、だからその救いの確信でさえも恵みでなくてはならないことを示してくれました。「私は罪人のままで赦される」「神さまはそんな汚れたままの私を赦したいと願ってくださるお方」と受け入れればよかったのです。自分がどうなるべきかではなく、神はどういう方かがすべてでした。
 教会という大人数のなかで味わう孤独感を抱いていました。。あえてことばにするとしたら「自分自身を受け入れられない不安」とでも言いましょうか、「ありのままでいい」と言われれば言われるほど、かえって「これじゃだめだ」と思ってしまうのです。自分を偽って見せているのに、他の人たちがその本当の自分でない私を認めているように感じる時、「本当は違うのに」という無意識な思いがきっと辛かったのかもしれません。
 そんな私にも主はみことばから恵みをくださいました。山上の説教を終えたイエス様が山を下って行くと、ひとりのらい病に犯された人が御許に近づき「主よ、お心一つで、私をきよくしてくださいます」と言うと、主は「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様はこの人を清くしてあげたかったのです。そのお心だけで十分でした。この人が何者でどんなことをしてきたかとか、今どんな者かなどでなく「ただ主がどうされたいか」「何をお望みか」がすべてでした。神さまは私を愛していることを十字架で示してくれています。こんなみじめで不敬虔で不品行な者を「赦してあげたい、救ってあげたい、自分の子にしたい…」そう願ってくれていると思えたことを今でも思い出します。回復不能なまでに病的に歪んだ私を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになって「私は私のままでよい」と私自身を受けとる、それが神を信じるということなのだと思った時、心の中にあった無理がなくなった気がします。
 他人が、自分の存在を無条件で、ありのまま受け入れてくれていることを知っていること、それは、みずから自己を受け入れることができるということに等しく、またそれゆえに、本当に自分になることができるということに等しいと誰かが言っていました。私にはイエス様がいます。そしてあなたにもイエス様がおいでです。安心して生きていて行きましょう。

​2025年11月9日

「あなたがたの光を輝かせ」 マタイ5章1-16節
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」


イエス様は話しを聞いている人たちに「あなたがたは世の光です」と言いました。まさかこんな私がと聞いていた人全員が思ったはずです。この世を照らすことのできる人なんてそうめったにいるもんじゃない、気高い身分・聡明な知恵・あわれみに満ちた品性…どれもない自分だということは嫌と言うほど知っていたからです。
私は最近になって「自分が光として照らすべき場がある」と思えるようになりました。この世のものではなく、イエス様から賜った光で。教会を閉じて浜松に行くことになりましたが、私にはその場で「あなたの光を輝かせなさい」と主が願っているのはないかと思ったのです。牧師だからではなく、息子として弟して家族として、私の光をみんなの前で輝かせたいと感じています。
この世の成功者ではなく、神さまの前に罪深いこんな私でもいいのでしょうか。いいえ、こんな私だから光となれるのでないか、私だから照らせる場が有るのでないかと思うのです。もっと言えば、イエス様が私をその場で灯してくれるという望みを持っています。こんなこと思ってはいけませんか。私は不適格でしょうか。イエス様は言いました「あなたがたの光を輝かせなさい」と。それで十分です、感謝します。
パウロは確かに世の光でした。ペテロもヨハネも殉教したステパノもです。誰も否定しません。でも彼らは、私の代わりにはなれません。あなたの代わりもつとめられません。私たちが生きている場を照らせるのは他にいないのです。誰にでも光をともすべき場があります。でもそれはたいていの場合、人気のないところです。本人もこんなところで何で私が生きなければいけないのかと思うような境遇です。神さまは光の届かないところに、私たち神の子どもたちを置こう、生かそうと願っています。だから生きることを恐れないでいましょう。

2025年11月2日

「狭い門から入りなさい」 マタイ7章13-14節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」


「狭い門から入りなさい」これは苦労してでないといのちには至れないという意味ではないと思います。「楽して救いに至ることはありません。痛みや苦労を忍耐してこそ永遠のいのちに至るのです」と言われると、そうかと合点してしまいそうです。でも本当にそうなのでしょうか。そもそも永遠のいのちは、イエス様を信じたときに賜っています。ですから死後のいのちでもなければ、これから苦労して掴むものでもありません。言い換えれば、「今を生きているいのち」こそ主に賜った永遠のいのち」ではないでしょうか。でも大切なのはそれに気付いてそのように生きているかということです。今の自分のいのちへの構えを一度確認してはどうでしょう。満足、まあまあ良い、残念、失望…感情的にはいろいろですね。でも大切なのは受け入れて行こうとする姿勢です。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24)「自分を捨てる」それはきっと「自分の誤解を改める」ということではないでしょうか。私たちは誤解や偏見、思い込みを持って生きています。イエス様はともに歩んでいく中で、その誤解を捨てながら行きましょうと言っています。ではその誤解とは何でしょう。私にとっては「信仰は不可能を可能にする」という思いでした。救いはどうしようもないことをどうにかしてくれるという思い込みでした。でもそうならなくても、今まで私は主を疑ったり信仰から離れることもありませんでした。それはきっと私が信仰深かったからでは決してありません。そもそも信仰による救いは、「どうにもならないことにそれでも寄り添ってくれる、慰め」だったのです。それは「すくいを見いだした」といっても良いのかも知れません。「自分の十字架を負って」とは、苦しみの十字架を背負わなければ…と言うような悲壮感ではなくて、神さまに力を期待することよりも、現状にあえて甘んじて平安を期待する、いかなる時にも、そこに既に用意されている神さまの平安を求め、それを喜ぼうとする心構えを持てるようになりたいものです。そうすればきっと全世界を手にいれることに優る救いを手に入れられるでしょう。

2025年10月26日

「ただ、イエス・キリストのゆえに」 ローマ7章14-25節
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。


 救われてクリスチャンになって、生きて来て感じるのはただ自分が罪深いなあということです。これではだめだと思い、清くなろうとしてもまた罪を犯していることに気づかされます。「ほんとうにみじめな人間」そんな私でも、ただ感謝しますと言わせてくれるイエス様の恵みを覚えます。甘いとか不信仰とか言われるかもしれません、でも私にはそこでしか主のあわれみを感じることができないのです。
 「あなたは施しをするとき、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。…そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6章3節 たとえ人に見せないようにできても、自分にも見せないように施すことなんてできるのでしょうか。「ほんとうにみじめな人間」だと自分を知っている者にとって、天の父の報いはほど遠いものと思っていました。けれどそうではなかったのです。ほんとうにみじめな人間が父の報いをいただくには、「これはあの人のためにしている」という思いを持たずに「これは私のためにする」という、善行しているという思いを持たなければいいのではないでしょうか。こんなことを言うと、「そんな自己中心な言い分で何が報いだ」と叱られそうです。でもいいんです。罪深い私には「私のためにしか」何事もなしえないのですから。ただ、イエス・キリストのゆえに神に感謝します。
 「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」マタイ7章5節 今まで、このみことばは、自分の中からいろんな偏見や罪を除けば、他の人のあやまちも取り除くことができる」ということかと思っていました。でも本当の「梁」は、相手を変えてやろうという思いそのものだと気づかされました。こうあらねばならないと自分に注文をつけて欠点のない自分を追い求める前に、欠点のある自分をそのままに受け入れたらどうでしょう。こうあらねばならないと、相手に注文をつけて欠点のない相手を期待するする前に、欠点のある相手をそのまま受け入れられたらどんなにいいでしょう。こうあらねばならないと構えるのは真面目かもしれません、でも人生を人を自分を勘違いしている気がします。人生はそのまま受け入れて良いように既にイエス・キリストのゆえにゆるされたものではないでしょうか。ただその恵みのゆえに感謝します。

​2025年10月19日

「すべてを益としてくださる」   創世記45章1-8節、50章15-21節
「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」 50:19

 ヨセフほど、波乱に満ちた生涯を送った人はいないかも知れません。父の寵愛を受け、兄たちの嫉妬を買い、自分の弱さもあってか奴隷に売られてしまったというのですから。いろんなことがあって、ヨセフはエジプトの宰相になり、それを知らないで助けを求めに来た兄たちに告白する場面は感動的でもあります。45章では「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神のです」と告白しています。でも最初からそうは思えなかったはずです。自分の境遇を嘆き、兄たちを恨んだに違いありません。なのにどうしてヨセフは「実に神なのです」と言えるようになったのでしょうか。
 奴隷に売られ、獄屋に入れられ、人に忘れられたヨセフ、あきらめても不思議でありませんでした。いいえ、彼自身もあきらめていたのかもしれません。でもあきらめるどころか、ヨセフを通して大いなる救いの御業をなそうとしておられる方がいたのです。それを現実の生活の中で、小さなできごとを通して知っていくヨセフ。そうなるまで、救いはあきらめに似ているのかも知れません。でも違います。あきらめは、その苦しい状態に今自分の生きるべき場所を見出す目のないままに耐えているのに対して、その目を持って耐えているのが救いだからです。。
 私たちは神さまのみこころを知りません。どこまでも人間的な思いで人生を描いています。また同時にそのことのために落胆しやすく、また誤って高慢になっていきます。私たちはそれほどまでに弱いのです。ヨセフがもし獄屋から父のもとにすぐに帰れたとしたら、また兄たちの策略が失敗していたら、そもそもヨセフが兄たちの怒りと嫉妬を買わなければ・・・「もし、〇〇だったら」と私たちは考えてしまいます。さまざまな思惑、人々の罪、自分の弱さやあやまちが大きな波のように私たちを飲み込んでしまい、それに逆らってもどうしようもないという無力感が支配してきます。あきらめますか?それともそれでもそうなっても信じますか。問題は「思い通りになるべきなのか」それとも「主のみこころがなされるか」ということを、自分の人生に期待すかということです。パウロは「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)と宣言しました。ヨセフの為にすべてを益としたお方は、きっと私、あなたのためにも益としてくださるにちがいありません。
 ヨセフはエジプトの宰相になりました。でも彼の人生で最も美しく輝いているのは、兄弟との和解だと信じます。どうか、最後まであきらめないで、主に心を寄せましょう。「主よ、あなたのみこころが私の生涯でなされますように」と。それでいのです。主がなさってくれれば。

​2025年10月12日

「天の御国では」 マタイ18章1-5節
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受入れる者は、わたしを受け入れるのです。」


 何回も弟子たちは「だれが一番偉いのですか」という質問をしています。それは何と十字架を目の前にした時でもくり返ししたほどです。イエス様はその都度お答えになってくれましたがペテロたちには理解できませんでした。「この小さな子どものような者が天の御国では一番偉いのだ」という主のことばを私たちも学びましょう。
 そもそも「偉い」とはどんなことだと思いますか。この世で偉い人とは人の出来ないことをできる人、才能や秀でた能力を持っている人、財産があって、多くの人からの賞賛を持っている人とか…言い換えれば「できる」「持っている」ことが偉いのです。信仰の世界に当てはめれば「厚い信仰を持っている」「忍耐があって、人の嫌がることでも進んでする」人と言えるかもしれません。しかし天の御国ではそうではありません。「何かができる」「何かを持っている」で、左右されないのが天の御国なのです。そのことを示そうとイエス様は「何ももっていない」「何もできない」小さな子どもを皆の前に立たせたのではないでしょうか。
 すべての生きる者が等しく与えられているもの、それはきっと「ある」といういのちの現われだと信じます。人は神のかたちに創造されています。そこにいろいろ持ってるとかできるとか言って、飾ってはいますかそれは、付け足しです。大切なのはその付け足し飾りではなくて、「わたしはわたし」という尊い存在そのものです。あなたは自分の価値を知っていますか?尊いとお思いでしょうか?神の御子がその御命を投げ出しても、取り戻したいと願うほどに。
 「子どものひとりを、わたしの名のゆえに受入れる者は、わたしを受け入れるのです」天の御国は、死後の世界ではありません。生きて今信じて生きているこの現実です。私はこう信じたいと思います。「このひとりとは私のことです。小さな自分を私は受け入れます。これが私です」と。それはすなわち、神の御子イエス様を受け入れることだと。どうかこの世の物差しである「する」「持つ」で自分を測ってしまいませんように。あなたがあなたとして今生きている、このことの尊さに気付いてください。それは神さまの願いなのです。イエス様の十字架はそのことを叫んでいます。
 

​2025年10月5日

「いっしょに喜んでください」 ルカ15章
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


 今日は皆さんと一緒に「悔い改め」ということばを学びたいと思います。辞書などによると「後悔」とは違った面がわかります。後悔は:過去の言動を振り返って、感情的に残念に思ったり、悲しんだりすることです。一方で悔い改めは:後悔を基盤に、理性によって自分の行動や生き方を具体的に変えていくこととあります。違いはどうやら、感情的なものから実際の生き方まで変えることらしいです。
 ルカの福音書15章に登場するの三人の話しに入る前に、羊飼いの話しをみましょう。いなくなった一匹は自分では迷おうなどとはこれっぽちも思っていなかったのでないでしょうか。気が付いたら回りに誰もいなかった、自分では帰れない場所に来てしまっていた…そこに羊飼いがやって来て、大喜びでかつぎあげ群れに戻ってくると「いっしょに喜んでください」と言うのです。後悔はひとりでできますが、悔い改めには羊飼いが不可欠なのです。そして後悔にはないものが悔い改めにはあります。それが「いっしょに喜ぶ」という祝福だと信じます。
 弟息子はとてもわかりやすいですね。もっと幸せになれると思って家出したのですが、お金が尽きると楽しみも友の消えてなくなったです彼は「後悔」したに違いありません。そこで飢え死にしそうな弟は「父のところに帰ろう」と立ち上がりました。弟の父への思いにはある特徴があります。「もう私はあなたがたの子と呼ばれる資格はありません。」という思いです。その弟を父は抱き寄せ、番いい服を着せて、宴会をして大喜びしたのでした。感動的といってもいい情景をみて怒り心頭な者がひとりいました、兄息子です。彼は父に「私は長年あなたに仕え一度も逆らったこともありません。でも一匹の小羊でさえくれなかった。それなのに…」と抗議したのです。兄のことばには「私は資格があるのに無視されてきた」という思いが溢れていると感じます。二人とも迷った一匹でした。一人は遠い町で、もうひとりは父のそばでいなくなっていたのです。
 失っていたいなくなっていた大切なふたりがこの日、戻ったのです。「喜ばないことなんてできない」というのが父の気持ちだったのです。私はそう思いますが、みなさんはどうですか。弟は空腹の中で後悔しました。でも帰れる場、父の家があることが彼に立たせる力をくれました。悔い改めには希望があります。喜びがあります。宴会の中心で弟息子は信じられなかったかもしれません。こんな私でも喜ばれている…と。兄は父に仕え懸命に生きてきました。でも何ももらえなったと本音を父に告白しました。そんな彼に父は「私のものは、全部おまえのものだ」と言ってくれたのです。神さまは、私たちが悔い改めることを願っています。そして「いっしょに喜ぼうではありませんか」と仰せです。後悔はできても、反省ばかりの人生だったかもしれません。でも今、神さまの子となったあなたには帰れる家、待っている父がいます。「こんな私でもいいのですか」とあなたが言う。父なる神は「そんなあなたがいい」と必ず言って下さいます。それがイエス様が下さった恵みなのです。

​2025年9月28日

「私はそれを知らなかった」 創世記28章10-19節
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。


 神さまはひとりびとりの生に立ち入り、時にさばき、時に慰め、時に励まし、時に強制するなど、働きかけてくださる方です。ところで、そのひとりびとりの生は全く違うのですから、神はそれぞれの人にとって、その人にだけ納得できるように働きかけてくださると言えます。つまり、神はひとりびとりにとって、その人だけの神となってくださるのです。
 ヤコブは自分の犯した失敗のゆえに、また自分の性格的な弱さのゆえに、アブラハムの神が自分の神となってくださっていることに多少のためらいを感じていたのかも知れません。けれども、ヤコブの心は、アブラハムの神は依然として自分の神であり続けることを知った時、驚きあわて、恐れおののきました。ヤコブはどんなに喜び、命の息を吹き返したことでしょう。また彼の聖なるお方に対する思いはどんなに深められたことだろう。キリストの神は私たち一人ひとりに対して、まさに自分の神になってくださる方なのです。しかもそれは、神のご希望ですらあるのです。驚きべき恵みです。
 ヤコブは知らなかったと告白しています。すでにあったものに気づけなかった自分への神さまの恵みを感じたのです。それは自分の弱さや罪深さを味わったときでもあったのです。私も知らなったものだらけでした。感謝も祈りも赦しも知らないままに生きてきました。十分な恵みの中にいながら、その幸せにあまりに鈍感でした。でも私の神となってくださったお方は、ご自身のことを子である私に、隠そうとせず教えてくださったのです。そのたびに私はひざをかがめ感謝するほかありません。
 このようにして私のような歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになり、「私は私のままでよい」と自分自身を受けとる、それが神を信じるということなのだと思うようになりました。信仰は「力むこと」やりむしろ「力を抜いて憩うこと」を主とすることではないでしょうか。そのとき、私たちは私のような者のためにキリストの神は神となってくださっっていることに言い知れぬ恐縮さを思い知らされます。生きることさえ赦されているのですから。

​2025年9月21日

「キリストが私のうちに」ガラテヤ2章11-14、20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」


 燃えるような心でこの手紙を書いたパウロ。と言うのは、ガラテヤの教会で「キリストを信じるだけでは不十分だ。異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない」という教えが大きな波のように、クリスチャンたちを飲み込んでしまっていたのです。それはイエス・キリストにある恵みを台無しにするものでした。なぜ人はキリストの十字架を台無しにするこのような誤った教えを受け入れてしまうのでしょう。それは「恐れ」でした。
 その恐れは御国の鍵を与えられたペテロでさえも従わせる力を持っていたのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である」というところに平安の源を持たなければ、私たちは打ち負かされてしまいます。私たちはそんなに強くはないのです。「ヤコブのところから来た割礼派」ということばに私たちは何も感じません。でもペテロにとってそれは「本家」「正統派」をきっと意味していたのです。その人たちの気分を損ねたりしたら大変だ、私ははぐれ者のレッテルを貼られてしまう…恐れは感染していきます。またガラテヤの教会にとっては「割礼を受ければ、ユダヤ人と同じようになれる」という彼らの劣等感を埋めるには十分な衝動をもたらすことになったのです。キリストを信じることに何かを加えるなら、もうそれは「福音」でなくなってしまいます。それはクリスチャンをおびえさせるだけでなく、高慢にしてしまうものです。
 そんな彼らにパウロは「生きているのはもはや私ではない。キリストが私のうちに生きている」と言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました」とまで言っています。ガラテヤ教会の兄弟たちにとってそれは、初めて聞くものです。福音にまっすぐに生きるとは、誰の指図も受けず、イエス様を信じる信仰で生きていくことです。恐れなくてもいいのです、誰が正しいとか、何々派がどうとかこうとか議論し、争い誇ること自体が「外れた生き方」だと思います。「天の父は、私の神であり、私は自分のままで良い」という恵みに堅く立ちましょう。
 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」5章1節 私たちはせっかくイエス様が自由の身にしてくれたのに好んで奴隷になろうとするのです。人は本当に悲しいものです。キリストがすべてです。人の行いは決して主に栄光を帰することができません。どうか、キリストの恵みを台無しにすることがありませんように。「キリストだけで私は満足です」と高らかにほめたたえる人になりましょう。アーメン
 

2025年9月14日

「試練とともに」 1コリント10章12-14節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」


私たちはどうしても自分だけが苦しいと思ってしまいがちです。でも本当はみんな生きていくのは辛く大変なことだと味わっています。神さまは「あなただけではないよ」と仰せになっていることを最初に覚えましょう。
 「耐えられないような試練に会わせることはしない」。これは安易で楽な生活を保証しているいるのではありません。みことばは続けて「むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」とあります。試練に重い軽いがあるのではありません。私たちに試練を乗り越えられる力があるのでもありません。ただ主の恵みによって「耐えられるように脱出の道」が備えられています。
 ああ、何と今まで私は勘違いをしてきたのでしょう。試練がなくなるのが私への神さまのご配慮だとばっかり思っていました。でも本当は、私の神さまは試練とともにセットで脱出の道もちゃんとご用意してくださっていたのでした。人は生まれてきたその日から、いろんな試練を通って行きます。それはまるで絶えることのない波のようです。干満をくりかえして私たちに寄せてきます。イエス様の救いは、これらの試練をなくすものではありませんでした。そうではなくて、試練の中で生き抜いていけるものを備えてくださっていると信じます。
 「脱出の道」その道は、楽な道、楽しい道ではきっとないでしょう。でもそれだけが試練の中で耐えて生きていけるようにしてくれます。イエス様は「わたしが道である」と仰せになりました。試練とともに備えられる恵み、それはその中でしか、会うことのできないイエス様に会い、その大きな包容の中にいさせてもらっている自分を見つける幸いです。幸不幸を越えて存在する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人とはこのように逃げない人です。皆さん、人生の試練はあなたの罪や失敗に対する神からの懲らしめではありません。合格不合格を決める裁きでもふるいではありません。愛する者に、「こんな時でもわたしは、あなたの味方だ」というお方を味わい知るためにあります。どうかこれから生きることに恐れをなさずに、行きましょう。

2025年9月7日

「私はその罪人のかしらです」1テモテ1章15-17節、ローマ7章14-25節
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」


 天地の創造主の福音を伝えるのにふさわしい者とは一体どれほどの人格者でなければならないでしょうか。でも使徒パウロは自分を「罪人のかしら」であると明言しています。もし許されるのならこう言い換えてもいいのかもしれません。「福音を伝えるにふさわしいのは、最も罪深い者」となります。罪人のかしらが福音を宣べ伝え、罪人のかしらが大いなる主をあがめる、驚くばかりの恵みではありませんか。
 ひとつだけ忘れてならないのは、その者は自分は悪いことをしていると自覚しているだけではないのです。「私はイエス様の十字架を信じて救われているのに、こんなに罪深いのです」と知らされた人です。信仰を持ちながら「自分のしてることがわかりません」といっているパウロの告白を読んで見ましょう。ローマ7章は、救われたパウロ、福音を宣べ伝え、多くの教会を建てあげていった彼が自らのことを記しています。「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)。
 神さまを信じればもっと善を行えるような自分になれる、悪を行い続けるようではきっと救われていないのではないか、と思うかも知れません。いいえ、救われているからこそ、そう思いその事実に驚くのではないでしょうか。イエス様の十字架の福音を伝えるのにふさわしのは誰ですか。罪人かしらとは一体誰のことですか。そして、罪の力に抗えない自分を知っている者は誰ですか。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(7:24)と私たちは祈ったことがあるでしょうか。
 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(7:25)。自分はほんとうにみじめだと言ったばかりのパウロ、でもそのすぐ後で「ただ感謝します」と明らかにしました。これは開き直ったのでもなければ、取り繕っているのでもありません。感謝の源が、自分の善や行いではなかったのです。自分には全く感謝の原因がない、ただ、これだけの理由、それは主イエス・キリストだけなのです。自分のみじめさに倒されていませんか、こんなはずじゃなかったと失望していませんか。それだからこそ、私たちも「主イエス・キリストのゆえに感謝します」と神さまをあがめましょう。天地の栄光の主をあがめられるのは、あなたをおいて他にはいないのですから。​​​

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