クリスチャンバプテスト教会
Christian Baptist Church
クリスチャンバプテスト教会

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、
あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のあるものは聞きなさい。」
2025年8月24日
「生きることがキリスト」
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」 ピリピ1章21節
使徒の働きの最初のころを読んでいると、ペテロたちは押しかけてきた病人を癒し、多くの驚くべきしるしを行いました。もし、奇跡や癒しがなかったら、きっとあんなに多くの人が福音に興味を示さなかったかもしれません。。
私たちは、救いとはこのように、癒されること、改善さていくことと思う傾向があります。でも今の時代では、使徒はもはやおらず、どんな病も癒されるという奇跡もなくなっています。神さまの救いの御業はちっとも変わらないのですから、イエス様のくださる救い、永遠の命はどんなものなのかと改めて思います。
病気になれば癒されることを誰しも願います。でも癒されない病気もありますから、救いは、病気や死を拒むのではなくて受容する人生態度を確立していくことだと思います。そういう態度は消極的に見えてしまうかもしれませんが、そもそも私たちはその命そのものを神さまからいただいているのですから、受容する生き方は神さまの望むすがたであると思うのです。
病だけでなく。苦しい状態からの解放も救いといっていいのかしれません。けれど信仰がもたらしてくれる救いは、苦しい状態をこのままで良いと受け取れることです。そこには、その苦境の中に自分の生きる道を見いだしているといういさぎよさがあり、何よりも生きる充実感があります。
イエス様は「神の国とその義を第一に求めなさい」と仰せになりました。私たちが衣食住のことで悩み、何とか生活を良いものにしたいと願い努めることをいけないとは言っておられません。けれどそれだけになっていないか、それが第一となっていないかと問うてくださったと思います。その根底には「あなたがたの天の父が鳥も花も生かして装っていてくれる」「花は花らしく、鳥はとりらしく生かしてくれている」のではないか。だとしたら「あなたがたにはさらに良くしてくれないわけがあるだろうか」と迫ってくださいました。私たちはこんな大きなお方のみこころの中に生かされていたのです。そのことに気づき納得して生きていけたらと思うのです。そしてこのような納得こそ「あなたがたの光」であり、その生き方が「あなたがたの良い行い」ではないでしょうか。
パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言います。信仰は「信じる」だけでなく、「生きること」です。生きることがキリストですであり、死も生きること、いいえ生かされ、死なされるものだと強く感じます。もしそのことに感動して生きられたら、私たちは幸いな者と呼ばれるでしょう。
2025年8月17日
「いのちを見出す」 マタイ16章21-25節
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
ペテロの言っていることは的を得ているように聞こえます。「イエス様のように愛とあわれみに満ちたお方は、良い報いをうけて当然です。十字架で殺されるなどあり得ない」というのです。でもイエス様は彼に「あなたは勘違いをしています」と強い口調で諭しました。
今の現実を自分のしてきたことの結果だと早合点してしまうことが多い私たちです。良いことがあれば、自分の行いが良かったから、信仰深かったからと思い、逆に悪いことが起きれば、自分の失敗や罪・不信仰のせいでこうなってしまったと後悔するのです。それがいい悪いというのではなく、そこに神さまのことを思うことが欠けています。良いことがあれば高慢にならず感謝し、悪いことだらけでも卑屈にならずに「赦して」と祈りつつ生きられたらいいですね。あまり背負いこまないでください。
イエス様はご自分を信じる者たち、全員に「ついて来なさい」と言ってくださいました。そこに何の差別もありません。 イエス様とともに行くには二つのことが求められます。「自分を捨てる」こと、「自分の十字架を負う」ことです。ここで大切なのは、最初から「自分を捨てて、自分の十字架を負って」いくことは誰もできないということです。思い描いていた道と現実の違いに落胆し逃げたくなりそうな自分に出会ってしまった、そんな者でなければ「自分を捨てる」ことは、分からないと思います。そしてキリストのために福音のためにと生きて来たのに「どうしてこんなことに」と思ってしまう自分を見せつけられた人でなければ、「自分の十字架を負う」ことの平安はわからないと思います。どちらも神さまの恵みなのですから。
まことのいのちは、もうすでに信じるひとりひとりに与えられています。でも私たちが自分の思うように生きているので、まことのいのちに気づかず、生き損ねているのかも知れません。自分の思うように生きられることが幸せ、それを主は「いのちを救おうする」と表していると思います。自分の願いや思うようにならなくても、私は生きると自分の人生を負うこと、それを主は「自分の十字架を負う」=「わたしのためにいのちを失う」ことと仰っている気がします。ある人が言いました。「人が生きるということはどれだけのことをしたかではなくて、どれだけ自分の思い通りにあえて生きなかったかではかられるものと心得ましょう」と。つまらない人生など、ひとつもありません。私たちの人生はみな違います。それでいいのです。でもこの大きな違いの底深くに、「生きることが赦されている」というたったひとつの同じに気付けたら、その時私たちは天国を味わうでしょう。でも、違いだけにとらわれていたら、生きることは苦痛になってしまいます。どうか、まことのいのちを主とともに見いだしませんか。
2025年8月10日
「弱さのうちに完全に」 2コリント12章1-10節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
誰でも困難や苦しみや悲しみは味わいたくはありません。パウロだってきっとそうだったに違いありません。ではなぜここでパウロは「弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難を喜んで受け入れます」と言いたかったのでしょうか。きっと、私たち人間はそのような窮地に立たされなくては自分の弱さに気付けないからです。自分が弱いとき、私たちクリスチャンは神に拠り頼み、初めて自分の信仰で見上げることになるのではないでしょうか。その自分だけの弱さに注がれる主のあわれみを感じるところなのですから。
その恵みはパウロにとって十分であって、他の人には十分だったかわかりません。この主の尊いみことばは、この時のパウロに授けられたものです。私たちの生はひとりひとり皆、違います。だから私たちひとり一人への神さまのお働きもみな違っています。それでいいし、それだから感謝だと思います。目の痛みあってもパウロにとって主の恵みは十分だったのです。他の人には主は目を癒してその御力を完全にお示しになるでしょう。どれもこれもその恵みは十分なのです。恵みに決して不足はないと信じます。だから私たは他の人たちと自分を比べることはしないでいいのです。主の恵みはあの方にとっても十分であり、私にも十分なのです。
この手紙を受け取ったコリントの町の教会の兄弟姉妹たちはあっけにとらわれたに違いありません。「何で自分の弱さなんて誇るんだ」という声が聞こえてきそうです。「キリストは私たちの弱さを改善して、少しでも強い人に変えてくださる」というのならまだ理解されるかもしれないのに。でもパウロだって誇りたいわけではありません。ではなぜ?それはコリントの兄弟姉妹たちがこの世の誇りに囚われていたのだと思いうのです。誇れるのは「強さ、尊敬、成功…」、これが世の常です。そんな誇りに心奪われていた彼らにパウロは言いたかった、「私は自分の弱さを誇る」と。
クリスチャンは強くなるように導かれるのではなく、弱き自分に気づかされる方向に生かされています。そこに謙遜も祈りも感謝も平安も備えられているのです。「弱いときこそ、私は強い」それは弱さに向き合えるときこそ、私たちは強くされるのです。誰に?主キリストにです!ですから、逃げないようにしたいものです。ですから、強がってみせないようにしましょう。私もあなたにもキリスト・イエス様の恵みは十分であることを忘れないようにしましょう。
2025年8月3日
「きょう、救いがこの家に来ました」ルカ19章1-10節
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。
ザアカイ自身が抱いていた自分らしさ(セルフイメージ)は、きっとこれまで出会ってきた他の人たちからの評価でできあがっていました。「取税人のかしらで、金持ちで、背が低い」どれもマイナス負のイメージばかりです。私たちも例外ではありません。今まで他の人から下されてきた評価が自分の自己評価になっていないでしょうか。「あなたはこんな人」という外面でしか判断できない回りの人のイメージが私自身を作り上げています。それが重荷になり、卑屈にさせることはあっても、ハッピーにすることはほとんでありません。
ザアカイはイエス様に関心をもっています。それはきっと外見ではなく、イエス様の心の内にあるものにひかれていたんだと思います。その思いがあまりに強くて、彼はこともあろうに、木にまで上ってイエス様を待ち構えていました。実はこの日、イエス様も大きな願いをお持ちでした。それは「エリコのザアカイに会いたい」という思いだったのです。人が主にお会いしたいと思う以上に、主はその人と交わりたいと願っておいでなのです。
イエス様の方からザアカイに声をかけました。「ザアカイ きょうはあなたの家に泊まるから」。それを聞いたザアカイは大喜びでイエス様を家に迎えたのです。イエス様は「ザアカイ、わたしを受け入れなさい。そうすれば、わたしもあなたを受け入れよう」とは言いません。先ずイエス様の方でザアカイをそのままありのまま喜んで受け入れてくださっていたのです。ザアカイは自分を取税人のかしらで金持ちで背が低く嫌われ者、憎まれ者の自分をイエス様が受け入れて、泊まってくれることに本当に感激しました。初めて自分が自分であったことを喜んだにちがいありません。だからザアカイはこんな生き方をしたいんだと主に叫びました。私たちは自分ひとりで自分を受け入れることができません。誰か他の人にまるまる受け入れてもらったという経験をして初めて「自分らしく」なれるのです。ザアカイは救われました。
近所の人たちは「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言って非難しました。でもイエス様はちっとも気にしていません。ザアカイの救い主、ザアカイの神になることを願ってこの町に来たのですから。「救い」それは、イエス様が私たちのいいえ、私ひとりの神となってくれることです。「信仰」それは、「私は私のままでよい」と自分自身を受けとることです。そしてそれはまことの神であるお方の切なる望みでもあるのです。感謝 ハレルヤ
2025年7月27日
「ふたりの祈り」 ルカ18章1-13節
取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「こんな罪人の私をあわれんでください。」
神を信じる者たちにとって、この地上の生涯の最後の一瞬まで、神さまに失望しないで生きられたらどんなに幸せでしょう。でも現実は、主はその人を見捨てたりしないのに、人間のほうが神を捨てることがあり得るのかも知れません。そもそも祈りってどんなことでしょう。失望してしまう祈りがもしあるとしたら、それは祈りではなく、正直に自分の欲だったと認めることが必要なのかも知れません。
イエス様は驚くことを言いました。「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と。信仰を祈りと置き換えても良いと思います。「ひとの子が来たとき、はたして地上に信仰=祈りが見られるでしょうか」。神さまと私たちとの関係を最も正直にあらわしてくれるもの、それが祈りです。祈りには私たち自身の信仰が反映されています。良い祈り、悪い祈りがあるのではありません。立派な祈りと貧しいお祈りがあるのでもありません。さあ、イエス様が私たちに教えてくれる祈りとはどんな祈りなのでしょうか。
「自分を義人だと自任(自慢)し他の人を見下している者たちに対して」と書かれています。祈りとは恐ろしいものですね。高慢な祈り、隣りで祈る人を見下す祈りがあるなんて、ショックなことです。受け入れてもらえなった祈り、それは「感謝」のことばでした。本当に驚くことです。感謝っていいものですし、感謝の祈りはささけられるべきです。でもこのパリサイ人の「感謝」は自分がしたことや取税人を見下した「感謝」だったのです。優越感の感謝、自負みたいなものです。私の感謝はこのパリサイ人のようではないかと自問しました。
「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人。あれができたこんなことをした、それもきっといいでしょう。でも「祈り」という関係では、「私をあわれんでください」という心の叫びほど大切なものは他にはありません。言い換えれば「赦してください」「生かしてください」「守ってください」という祈りです。その祈りの源は「主はあわれみ深い方。そして私は罪深く心貧しい不敬虔な者」という自覚です。「私には何もありません、でも主は私を生かしてくださいます。私がみこころに従って生きられますようにあわれんでください。」と祈ります。「私の願いではなく、あなたのみこころがなされますように」そう祈る時、私たちは失望しません。祈りは聞かれるのです。
2025年7月20日
「熱心に待ちます」 ローマ8章15-25節
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
自分の信仰を省みることがあります。「これでいい」と思うときもあれば「なぜこんなにも弱いのか」と嘆きたくなることも多々あります。今日のみことばは、私に「信仰は待つこと」だと語ってくれます。聖書を思い出してみると、エジプトにくだったイスラエルは、約400年間という気が遠くなるほどの間待つことを強いられました。何世代もの間、目に見えるような救いの兆しすらなかったのです。でも彼らは何代にも渡って「救いを待ち望む」信仰を持ち、そして伝え続けのです。すぐにも神さまの御手が自分を救ってくれるはず、と思い込んでいる私にとっては驚きです。そしてその信仰は「神を恐れる」という土台のうえに建てられていたことに気づかされます。
救いを待つ者の心から希望を奪うことのできるものは、ありません。神さまご自身がその信仰を待ち望む心を守っておいでだからです。でも何回も言いますが、多くのいいえ大部分の者は、救いを目にすることなく死んでいきました。「こんなに待ったのに」といって嘆きつぶやいても誰も責められる状況ではありません。でも彼らは「この状況は自分たちのせいではなく、主の御手のなされること」という「納得」があった気がします。平安はこの納得がもたらすものではないでしょうか。
壮大な永遠を舞台にパウロは語っています。でも私はもう少し人間的な言い方しかできません。もしかしたらこの苦しみで別の希望が持てるかも知れない、という気持ちです。苦しみが涙と不平しか私にくれないのなら、絶対に苦しみたくはありません。でも、そうではないのです。「苦しい状態からの解放、それは確かに救いといってよいのですが、信仰が与えようとする救いは、それではないのです。真の救いは、苦しい状態をこのままで良いと受け取れることです。救いは自分がどのように受け取れるかであって、状況をむりやり変えることではなかったのです。
イエス様はペテロたちに祈りを教えてくださいました。「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われるように…国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」と。どうか私の祈りが神さまの力でなく、平安を期待し待ち望むことでありますように。もうすでにここに備えられている平安を喜べますように。
2025年7月13日
「だれが一番偉いのでしょうか」マタイ18章1-5節
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国は、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」
どうしてもぬぐい切れないものがあります。それは「だれが一番偉いのだろう」「私はどれくらい認められているだろう」という思いです。もちろん「一番偉い」とまでは思いわないかも知れませんが、私たちは「認めてもらいたい」「私は必要とされてるだろうか」と思うのではないでしょうか。それは自分という存在の価値を与えてくれるように思えるからです。そしてその自分の価値は「何を持っているか」「何をすることできるか)」で決まってくるのがこの世なのです。
この世界では弟子たちの質問は前向きに聞こえます。でも「天の御国では」言い換えれば、イエス様を信じる者たちの間ではとなると「だれが一番偉いか」と言う思いは、イエス様には見過ごすことのできないものでした。「厚い信仰を持った者」「わたしのためにすべてをささげることのできる者」と、もし、イエス様が仰せになったら、ペテロたちは納得したことでしょう。でもイエス様はそれを願っていません。だから、弟子たちにはまったく予想もできなかったことをされました。主は小さな子どもを真ん中にたたえたのです。「何ももっていない」「何もできない」小さなこどもをです。
「悔い改めて子どものように」とは、子どものように無邪気になって、何事も疑わないで、素直になりなさいと言っているのでもないと思います。悔い改めて、とは「天の御国では、人は何かができる、できないではなく、また何かを持っている持っていないということで評価されません。天の御国では、その人がその人であることに価値があるのです」と認めることのようです。そのためにイエス様は小さな子どもを立たせたのでないでしょうか。天の御国では安心していいのです。何も持たずとも、何もできなくとも、あなたの存在は認められ、誰にも否定されたりさばかれたりされません。
神さまはひとり一人を持っている持っていない、できるできないという視点で計ったりしません。あなたがあなたとしてここにいること、そのことの重さ、聖さをきっと喜んでおいでです。もちろん人として社会人として前向きになることは悪いことではありません。でもそこには平安と言う救いはないことも忘れないようにしたいものです。救いは何も持たずとも何もできずとも、神とともにある慰めを味わうことですから。人を評価し、自分をさばくような生き方から自由になりませんか。イエス様を信じることは救いです。決して誰が一番偉いかと競うものではありません。安心してください。
2025年7月6日
「死で終わるだけのものではありません」 ヨハネ11章
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」
ラザロの姉たちは弟のことをイエス様に伝言しました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。「すぐに着て癒してください」という気持ちを少し控えめに託しました。「きっと主は来てくれる」という期待以上の確信があったに違いありません。愛する者が困っている時に見捨てるようなお方ではない、必ずどんな重い病も主の御手に癒せないものはない、姉妹たちは疑うことなく待っていました
姉妹たちはイエス様が来られるのを待っていたでしょう。でも一日、二日、三日たっても主の姿はありません。帰って来た使いはこんなことを言ったのです。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものですと。姉妹たちはそれを聞いてどう思い感じてでしょうか。「何を言っているのですか」「神の栄光って何ですか」という思いが膨らみます。そしてついに弟ラザロは息を引き取って、葬式も済み、墓の中への葬りを終わってしまったのです。「主は来なかった。なぜ」ふたりだけでなく多くの人が期待から一転して疑いと絶望に沈んでしまったとしても不思議ではありません。
一方で、イエス様は「わたしはラザロを眠りからさましに行くのです」言い換えれば、「ラザロはわたしが来て、眠りから覚ましてくれるのを待っている」と言ったのです。「眠り」は「睡眠のことではありません。死んでいる死んでしまっていることを言っています。不思議ですね。イエス様は死を眠りと言ったのです。これは「死は終わりではなく、覚めるときがくる」という慰めの意味と同時に、「人が恐れている死でさえもその手に握っておられる方がいる」という厳粛なメッセージなのではないでしょうか。
姉妹たちふたりはそろって同じことばをイエス様に言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の弟は死ななかったでしょうに」。イエス様はそう言って泣く彼女たちを見て、心を震わせ涙を流されました。「盲人の目をあけた方でも、死にはどうしようもなかったのか」。墓の前で人々のことばを静かにお聞きになった主は「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と言って、大声で叫ばれたのです。「ラザロよ。出て来なさい」と。ラザロは出て来ました、マルタもマリヤも驚きとそれにまさる喜びに満たされたに違いありません。私たちはイエス様を信じています。でもそれは自分の思いの範囲内でのことです。決して姉妹たちは不信仰だったとか言えません。彼女たちも信じていたのです。でも主イエスがされることは、私たちには想像もできないことです。だから「自分の信じていたとおりにならなかった」と気落ちしなくてもいいのです。いつも主のなさることはあわれみに満ち、受けるに価しないのにくださる恵みなのです。ああイエス様が私たちの主でよかったと思いませんか。
2025年6月29日
「その永遠のいのちとは」 ヨハネ16章33-17章3節
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
「永遠のいのち」それは神さまを信じる私たちに賜るものだということは知っていた気がします。でもそれは実際どんなものかと言われたら、みなさんはどのように答えるでしょう。ヨハネの福音書17章には「永遠のうのちとは神であるあなたとイエス・キリストを知ることだと記されています。信じていればこんな病がいやされるとか、信じていればこんな困難も乗り越えられるとうドラマチックな出来事ではないようです。信じていればいいことがあって、信じない人には不幸しかないというのではありません。同じ患難があったら、キリスト者はその中でキリストを知るのです。次に三つのことをお話ししましょう。
最初は「キリストは私たちの味方」ということです。それはたとえ私たちが敗残者のように見られようが、失敗したように思われようが(自分も含め)、私の神キリストは勝利者です、という思いです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう(ローマ8:31)。永遠のいのちは私自身はこんなにみじめで揺れ動いてもキリストが揺るぎない方である、それでいい、と確信させてくれます。
二つ目は、キリストは罪を赦すお方だということです。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(エペソ1:7)。勘違いすることがあります、それは信じたら罪がなくなるかのように思うことです。私たちは罪がなくなったのではなく、赦されたのです。そして今もキリストの血は私たちの罪を赦し、キリストは父に対してとりなし続けていてくださるのです。もちろん罪は悲しみをもたらします、誤解や憤り怒りを感じさせてきます。でもそのとき、永遠のいのちは、私たちにその罪のために赦しを請うているキリストの姿を見させてくださいます。
最後は、キリストは私たちのことを心配してくださるお方という恵みです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(1ペテロ5:7)。キリストが私たちのことを心配してくあださっている、そう思えますか。「そうは思えない。だって何も変わらないじゃないか」という声が聞こえそうです。でもそれは私たちの勘違いです。神が私たちの祈りを聞いてくださっている、私の気持ちをくんでくださり、私に弱さを理解し同情までしてくださっていると知っているだろうか。「聞かれる」は「かなえてくれる」と同じではないと思います。その御耳を傾け私以上に心を尽くし思いを尽くし一切を益としようとしてくださる、それがキリスト・イエス様なのですから。
2025年6月22日
「キリストとともに生きる」 ローマ6章3-8節、ルカ22章、23章
「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
「あなたがたは知らないのですか」私たちはいつも知らないのに、知っているかのような錯覚と思い込みに生きています。「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえり、キリストとともに生きる」この奥義が単なる説明から納得へと変えられるには時間が必要です。だからまず初めに、「自分は知らなかった」と認めませんか。そうすればそこから始まるのです。
イエス様であっても、「従順」を学ばなければなりませんでした。主はゲッセマネで祈り、もがき、十字架を負いながら進んでいかれたのです。同時に弟子たちも「従順」という生き方を現実に受け入れる道を一歩一歩進んでいきました。ローマ6章で言っている「死」とは「自分の願いではなく、神のみこころに従う」ことなのではないでしょうか。過ぎ越しの食卓で、主はペテロに「あなたは三度、わたしを知らないと言います」と話しました。それはペテロにとって最も避けたいことでした。言い換えれば「死」と同じです。ペテロは「ごいっしょならば死であろうと覚悟はできています」と言ったのです。「死」への抵抗です。一方イエス様はゲッセマネの園で「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。主は父のみころをご存じでありながらこう祈ったのでした。
そしてペテロは主のことば通りに「私はあの人を知らない」と三度言いました。そして主イエス様は十字架で苦しんだ末に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様は「死」を味わったのでした。文字通りの肉体の死と同時に、ご自身の願いよりも父の思いがなされた現実を味わっています。
あの最後の食事の席でイエス様はペテロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と仰せになっています。一度死んだ者でなければ他の人を励ますことは出来ません。死を避けて、自分の思惑通りに生きてだけいては、まことの命を見い出すことはかないません。たとえ、自分の願いのようにならなったとしても「主がなさったこと」とへりくだりましょう。良い結果ばかりが祝福ではないのです。すべてのことが私たちの愛する主の御手のなさったことです。そのお許しなしには何一つ起きないのですから。キリストとともに死んで、キリストとともに生きる」者になったことを信じ喜べますように。
2025年6月15日
「主と同じかたちに」 2コリント3章12-18節
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
聖書を読むとき、私たちは想像もできななかったことに出くわします。この箇所もそうです。なんと私たちのような罪深く弱い者が、イエス様と同じようにされていくと書かれているのです。「主と同じかたち」とは、イエス様の思いに似せられていくということだと思うのです。
もし、私たちがイエス様に似たものとなっていくことを妨げるものがあるとしたら、それは何でしょうか。ここに「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます」「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて」と書かれているのがヒントになりそうですね。私たちの顔をおおっているものって何でしょうか。ものすごく簡単に言えば「自分勝手な思い込み」と言ってもいいでしょう。パウロも自分の顔を覆っていたものに気づかされて、このような手紙を書き送ったに違いありません。「主の御霊のあるところには自由があります」その自由を私たちもいただいて、顔のおおいを取り除かれてみませんか。
あの神の御子、イエス様はこの世にこられただけでは、救い主としてはまだ全うされていなかったと聖書は言っています(へブル2章)。御父が御子を救いの君として完全にするために用いたのがなんと「苦しみ」であったのです、私には驚きでした。これは私の顔のおおいを取りのけるに十分なものでした。あのイエス様が苦しみ通して全うされていかれたのだと知ったのです。だとしたら「主と同じかたちに変えられていく」私たちにも、「苦しみ」は同じように働くのではないでしょうか。
「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」私はこのことを本当に知っているかと自問します。すべてというのは本当にすべてです。言い換えれば、私の身に起こることのすべては、私のために主がお許しになっていて、そのうえその一つひとつが私をイエス様のかたちに変えてくれるんだと言うことです。そしてこのことを知っている、経験してわかった人は神を愛する人だということではないでしょうか。私はずいぶん多くの思い込みを持っていました。そしてそれらが私の顔をおおってイエス様を見えないようにしていたんだと思います。今日は私たちは主と同じかたちに姿を変えられていくというみことばを聞きましたね。そのために神さまは苦しみをも用いてくださる方だと知りました。「どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)みことばが心に届きますように。
2025年6月8日
「心をがして騒はなりません」 ヨハネ14章1-4節
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。…わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
神の民はこの世では、寄留者・旅人だと言われます。言い換えれば、私たちには帰る家がほかにあると言うことす。そんな私たちが生きるモチベーションは何でしょうか。患難に耐えていく支えって何だろうと思います。ただ苦しむために苦しみ、悲しむためだけの悲しみは辛すぎます。私たちは御国に向かって走るランナーです。どうか主からの栄冠をいただくことを目ざして、勇敢でありましょう。主の恵みに慰められながら今日も一歩、踏み出しましょう。
それにしても人生は自分の思うようには行かないものですね。決して大きなものを得ようなどとは望んでいないのに…苦しみや悩みが私たちを神さまにつなぎ留めています。もしそれらがなければ、私などはきっと主のもとから去ってしまうかもしれません。苦しみは誰でも逃れたいものですが、避けられないのならどうかその中で主との交わりを深めましょう。私たちを救うみことばに出会えますように。この耳に主の声が聞こえますように。
老いも病も患難も、もしかすると私たちをこの世から天の故郷へのあこがれを増し加えるためにあるのかもしれないと思いました。
イエス様は何度も言いました。「わたしはあなたを捨てて孤児にはしない。わたしはあなたを決して離しはしない」と。どうか、この世でに安楽を求めすぎないで、天にある故郷、イエス様の備えて下さっている家に戻ることを想像してみませんか。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」2コリント8章9節
愛された私がもし、乏しさを嘆き落胆するとしたら、あのお方の恵みは不十分だと言っているのと同じです。そんなことはない、「主は私の羊飼い。私はとぼしいことはない」と言いたい気持ちになります。感謝します。
2025年6月1日
「あなたがたの光を輝かせ」 マタイ5章1-節16
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
イエス様はこの日、幸いな人はこのような人たちですと語りはじめました。多くの人たちがその話に心ひかれていたに違いありません。それは今も当時もみんな幸せを願っていたからです。そしてなかなか手に入らないのが「幸いな人生」だったからです。最初から「心の貧しい者は」「悲しむ者は」と言い出したものですから、聞く人たちは耳を疑いました。だってそのような人は、幸せからほど遠いと思っていたからです。そして主は、幸せとは「何かを手に入れること」ではなく、「あなたがどういう人になるか」なのですと教えて下さったのです。
「あなたがたの光を輝かせ」これは今の時代で言えば、どれだけフォロアーがいるかとか、どれほど「いいね」と反応してもらっているかということではありません。どれだけほかの人を感動させるような立派な行動や影響力があるかというものでもないと思います。イエス様が私たちに「あなたがたの光」といった光とはネットや文字では伝わりません。そこに生きている者から、同じ空間で生きている人へ伝わっていくもの、無理やりでなく、静かにそして優しく。救われた私たちの苦しみに耐える姿、祈る声そして主を愛することばが今日もこの世界のすみっこで輝けますように。人は小さな存在です。そしてその生きている範囲もそんなに広くはないはずです。そんな私たちが生で接することのできる交わりは限らせています。ですから何か大きな事をしようとしなくていいのです。自分の生きている範囲で、自分のあかりを灯しましょう。そして同じく小さな命に生きている隣人にだけ届きますようにと心がけませんか。
大切なことをもう一つ、それは決して自分があがめられることを願わないということです。あかりを燭台の上に置くのは、私たちの天の父です。そこで輝くようにと置いてくれます。その輝き自体も、父からの賜物です。決して私たち自身からでたものではないのです。光を輝かせることは、自慢になりません。あなたがほめられることではありません。もし誰かに喜ばれほめられたりしたら、私たち自身で祈りましょう。「父よ。私はあなたをたたえます」と。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」とイエス様が仰せになったとおりになりますように。