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「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、

 あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のあるものは聞きなさい。」

2025年10月26日

「ただ、イエス・キリストのゆえに」 ローマ7章14-25節
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。


 救われてクリスチャンになって、生きて来て感じるのはただ自分が罪深いなあということです。これではだめだと思い、清くなろうとしてもまた罪を犯していることに気づかされます。「ほんとうにみじめな人間」そんな私でも、ただ感謝しますと言わせてくれるイエス様の恵みを覚えます。甘いとか不信仰とか言われるかもしれません、でも私にはそこでしか主のあわれみを感じることができないのです。
 「あなたは施しをするとき、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。…そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6章3節 たとえ人に見せないようにできても、自分にも見せないように施すことなんてできるのでしょうか。「ほんとうにみじめな人間」だと自分を知っている者にとって、天の父の報いはほど遠いものと思っていました。けれどそうではなかったのです。ほんとうにみじめな人間が父の報いをいただくには、「これはあの人のためにしている」という思いを持たずに「これは私のためにする」という、善行しているという思いを持たなければいいのではないでしょうか。こんなことを言うと、「そんな自己中心な言い分で何が報いだ」と叱られそうです。でもいいんです。罪深い私には「私のためにしか」何事もなしえないのですから。ただ、イエス・キリストのゆえに神に感謝します。
 「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」マタイ7章5節 今まで、このみことばは、自分の中からいろんな偏見や罪を除けば、他の人のあやまちも取り除くことができる」ということかと思っていました。でも本当の「梁」は、相手を変えてやろうという思いそのものだと気づかされました。こうあらねばならないと自分に注文をつけて欠点のない自分を追い求める前に、欠点のある自分をそのままに受け入れたらどうでしょう。こうあらねばならないと、相手に注文をつけて欠点のない相手を期待するする前に、欠点のある相手をそのまま受け入れられたらどんなにいいでしょう。こうあらねばならないと構えるのは真面目かもしれません、でも人生を人を自分を勘違いしている気がします。人生はそのまま受け入れて良いように既にイエス・キリストのゆえにゆるされたものではないでしょうか。ただその恵みのゆえに感謝します。

​2025年10月19日

「すべてを益としてくださる」   創世記45章1-8節、50章15-21節
「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」 50:19

 ヨセフほど、波乱に満ちた生涯を送った人はいないかも知れません。父の寵愛を受け、兄たちの嫉妬を買い、自分の弱さもあってか奴隷に売られてしまったというのですから。いろんなことがあって、ヨセフはエジプトの宰相になり、それを知らないで助けを求めに来た兄たちに告白する場面は感動的でもあります。45章では「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神のです」と告白しています。でも最初からそうは思えなかったはずです。自分の境遇を嘆き、兄たちを恨んだに違いありません。なのにどうしてヨセフは「実に神なのです」と言えるようになったのでしょうか。
 奴隷に売られ、獄屋に入れられ、人に忘れられたヨセフ、あきらめても不思議でありませんでした。いいえ、彼自身もあきらめていたのかもしれません。でもあきらめるどころか、ヨセフを通して大いなる救いの御業をなそうとしておられる方がいたのです。それを現実の生活の中で、小さなできごとを通して知っていくヨセフ。そうなるまで、救いはあきらめに似ているのかも知れません。でも違います。あきらめは、その苦しい状態に今自分の生きるべき場所を見出す目のないままに耐えているのに対して、その目を持って耐えているのが救いだからです。。
 私たちは神さまのみこころを知りません。どこまでも人間的な思いで人生を描いています。また同時にそのことのために落胆しやすく、また誤って高慢になっていきます。私たちはそれほどまでに弱いのです。ヨセフがもし獄屋から父のもとにすぐに帰れたとしたら、また兄たちの策略が失敗していたら、そもそもヨセフが兄たちの怒りと嫉妬を買わなければ・・・「もし、〇〇だったら」と私たちは考えてしまいます。さまざまな思惑、人々の罪、自分の弱さやあやまちが大きな波のように私たちを飲み込んでしまい、それに逆らってもどうしようもないという無力感が支配してきます。あきらめますか?それともそれでもそうなっても信じますか。問題は「思い通りになるべきなのか」それとも「主のみこころがなされるか」ということを、自分の人生に期待すかということです。パウロは「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)と宣言しました。ヨセフの為にすべてを益としたお方は、きっと私、あなたのためにも益としてくださるにちがいありません。
 ヨセフはエジプトの宰相になりました。でも彼の人生で最も美しく輝いているのは、兄弟との和解だと信じます。どうか、最後まであきらめないで、主に心を寄せましょう。「主よ、あなたのみこころが私の生涯でなされますように」と。それでいのです。主がなさってくれれば。

​2025年10月12日

「天の御国では」 マタイ18章1-5節
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受入れる者は、わたしを受け入れるのです。」


 何回も弟子たちは「だれが一番偉いのですか」という質問をしています。それは何と十字架を目の前にした時でもくり返ししたほどです。イエス様はその都度お答えになってくれましたがペテロたちには理解できませんでした。「この小さな子どものような者が天の御国では一番偉いのだ」という主のことばを私たちも学びましょう。
 そもそも「偉い」とはどんなことだと思いますか。この世で偉い人とは人の出来ないことをできる人、才能や秀でた能力を持っている人、財産があって、多くの人からの賞賛を持っている人とか…言い換えれば「できる」「持っている」ことが偉いのです。信仰の世界に当てはめれば「厚い信仰を持っている」「忍耐があって、人の嫌がることでも進んでする」人と言えるかもしれません。しかし天の御国ではそうではありません。「何かができる」「何かを持っている」で、左右されないのが天の御国なのです。そのことを示そうとイエス様は「何ももっていない」「何もできない」小さな子どもを皆の前に立たせたのではないでしょうか。
 すべての生きる者が等しく与えられているもの、それはきっと「ある」といういのちの現われだと信じます。人は神のかたちに創造されています。そこにいろいろ持ってるとかできるとか言って、飾ってはいますかそれは、付け足しです。大切なのはその付け足し飾りではなくて、「わたしはわたし」という尊い存在そのものです。あなたは自分の価値を知っていますか?尊いとお思いでしょうか?神の御子がその御命を投げ出しても、取り戻したいと願うほどに。
 「子どものひとりを、わたしの名のゆえに受入れる者は、わたしを受け入れるのです」天の御国は、死後の世界ではありません。生きて今信じて生きているこの現実です。私はこう信じたいと思います。「このひとりとは私のことです。小さな自分を私は受け入れます。これが私です」と。それはすなわち、神の御子イエス様を受け入れることだと。どうかこの世の物差しである「する」「持つ」で自分を測ってしまいませんように。あなたがあなたとして今生きている、このことの尊さに気付いてください。それは神さまの願いなのです。イエス様の十字架はそのことを叫んでいます。
 

​2025年10月5日

「いっしょに喜んでください」 ルカ15章
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


 今日は皆さんと一緒に「悔い改め」ということばを学びたいと思います。辞書などによると「後悔」とは違った面がわかります。後悔は:過去の言動を振り返って、感情的に残念に思ったり、悲しんだりすることです。一方で悔い改めは:後悔を基盤に、理性によって自分の行動や生き方を具体的に変えていくこととあります。違いはどうやら、感情的なものから実際の生き方まで変えることらしいです。
 ルカの福音書15章に登場するの三人の話しに入る前に、羊飼いの話しをみましょう。いなくなった一匹は自分では迷おうなどとはこれっぽちも思っていなかったのでないでしょうか。気が付いたら回りに誰もいなかった、自分では帰れない場所に来てしまっていた…そこに羊飼いがやって来て、大喜びでかつぎあげ群れに戻ってくると「いっしょに喜んでください」と言うのです。後悔はひとりでできますが、悔い改めには羊飼いが不可欠なのです。そして後悔にはないものが悔い改めにはあります。それが「いっしょに喜ぶ」という祝福だと信じます。
 弟息子はとてもわかりやすいですね。もっと幸せになれると思って家出したのですが、お金が尽きると楽しみも友の消えてなくなったです彼は「後悔」したに違いありません。そこで飢え死にしそうな弟は「父のところに帰ろう」と立ち上がりました。弟の父への思いにはある特徴があります。「もう私はあなたがたの子と呼ばれる資格はありません。」という思いです。その弟を父は抱き寄せ、番いい服を着せて、宴会をして大喜びしたのでした。感動的といってもいい情景をみて怒り心頭な者がひとりいました、兄息子です。彼は父に「私は長年あなたに仕え一度も逆らったこともありません。でも一匹の小羊でさえくれなかった。それなのに…」と抗議したのです。兄のことばには「私は資格があるのに無視されてきた」という思いが溢れていると感じます。二人とも迷った一匹でした。一人は遠い町で、もうひとりは父のそばでいなくなっていたのです。
 失っていたいなくなっていた大切なふたりがこの日、戻ったのです。「喜ばないことなんてできない」というのが父の気持ちだったのです。私はそう思いますが、みなさんはどうですか。弟は空腹の中で後悔しました。でも帰れる場、父の家があることが彼に立たせる力をくれました。悔い改めには希望があります。喜びがあります。宴会の中心で弟息子は信じられなかったかもしれません。こんな私でも喜ばれている…と。兄は父に仕え懸命に生きてきました。でも何ももらえなったと本音を父に告白しました。そんな彼に父は「私のものは、全部おまえのものだ」と言ってくれたのです。神さまは、私たちが悔い改めることを願っています。そして「いっしょに喜ぼうではありませんか」と仰せです。後悔はできても、反省ばかりの人生だったかもしれません。でも今、神さまの子となったあなたには帰れる家、待っている父がいます。「こんな私でもいいのですか」とあなたが言う。父なる神は「そんなあなたがいい」と必ず言って下さいます。それがイエス様が下さった恵みなのです。

​2025年9月28日

「私はそれを知らなかった」 創世記28章10-19節
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。


 神さまはひとりびとりの生に立ち入り、時にさばき、時に慰め、時に励まし、時に強制するなど、働きかけてくださる方です。ところで、そのひとりびとりの生は全く違うのですから、神はそれぞれの人にとって、その人にだけ納得できるように働きかけてくださると言えます。つまり、神はひとりびとりにとって、その人だけの神となってくださるのです。
 ヤコブは自分の犯した失敗のゆえに、また自分の性格的な弱さのゆえに、アブラハムの神が自分の神となってくださっていることに多少のためらいを感じていたのかも知れません。けれども、ヤコブの心は、アブラハムの神は依然として自分の神であり続けることを知った時、驚きあわて、恐れおののきました。ヤコブはどんなに喜び、命の息を吹き返したことでしょう。また彼の聖なるお方に対する思いはどんなに深められたことだろう。キリストの神は私たち一人ひとりに対して、まさに自分の神になってくださる方なのです。しかもそれは、神のご希望ですらあるのです。驚きべき恵みです。
 ヤコブは知らなかったと告白しています。すでにあったものに気づけなかった自分への神さまの恵みを感じたのです。それは自分の弱さや罪深さを味わったときでもあったのです。私も知らなったものだらけでした。感謝も祈りも赦しも知らないままに生きてきました。十分な恵みの中にいながら、その幸せにあまりに鈍感でした。でも私の神となってくださったお方は、ご自身のことを子である私に、隠そうとせず教えてくださったのです。そのたびに私はひざをかがめ感謝するほかありません。
 このようにして私のような歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになり、「私は私のままでよい」と自分自身を受けとる、それが神を信じるということなのだと思うようになりました。信仰は「力むこと」やりむしろ「力を抜いて憩うこと」を主とすることではないでしょうか。そのとき、私たちは私のような者のためにキリストの神は神となってくださっっていることに言い知れぬ恐縮さを思い知らされます。生きることさえ赦されているのですから。

​2025年9月21日

「キリストが私のうちに」ガラテヤ2章11-14、20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」


 燃えるような心でこの手紙を書いたパウロ。と言うのは、ガラテヤの教会で「キリストを信じるだけでは不十分だ。異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない」という教えが大きな波のように、クリスチャンたちを飲み込んでしまっていたのです。それはイエス・キリストにある恵みを台無しにするものでした。なぜ人はキリストの十字架を台無しにするこのような誤った教えを受け入れてしまうのでしょう。それは「恐れ」でした。
 その恐れは御国の鍵を与えられたペテロでさえも従わせる力を持っていたのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である」というところに平安の源を持たなければ、私たちは打ち負かされてしまいます。私たちはそんなに強くはないのです。「ヤコブのところから来た割礼派」ということばに私たちは何も感じません。でもペテロにとってそれは「本家」「正統派」をきっと意味していたのです。その人たちの気分を損ねたりしたら大変だ、私ははぐれ者のレッテルを貼られてしまう…恐れは感染していきます。またガラテヤの教会にとっては「割礼を受ければ、ユダヤ人と同じようになれる」という彼らの劣等感を埋めるには十分な衝動をもたらすことになったのです。キリストを信じることに何かを加えるなら、もうそれは「福音」でなくなってしまいます。それはクリスチャンをおびえさせるだけでなく、高慢にしてしまうものです。
 そんな彼らにパウロは「生きているのはもはや私ではない。キリストが私のうちに生きている」と言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました」とまで言っています。ガラテヤ教会の兄弟たちにとってそれは、初めて聞くものです。福音にまっすぐに生きるとは、誰の指図も受けず、イエス様を信じる信仰で生きていくことです。恐れなくてもいいのです、誰が正しいとか、何々派がどうとかこうとか議論し、争い誇ること自体が「外れた生き方」だと思います。「天の父は、私の神であり、私は自分のままで良い」という恵みに堅く立ちましょう。
 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」5章1節 私たちはせっかくイエス様が自由の身にしてくれたのに好んで奴隷になろうとするのです。人は本当に悲しいものです。キリストがすべてです。人の行いは決して主に栄光を帰することができません。どうか、キリストの恵みを台無しにすることがありませんように。「キリストだけで私は満足です」と高らかにほめたたえる人になりましょう。アーメン
 

2025年9月14日

「試練とともに」 1コリント10章12-14節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」


私たちはどうしても自分だけが苦しいと思ってしまいがちです。でも本当はみんな生きていくのは辛く大変なことだと味わっています。神さまは「あなただけではないよ」と仰せになっていることを最初に覚えましょう。
 「耐えられないような試練に会わせることはしない」。これは安易で楽な生活を保証しているいるのではありません。みことばは続けて「むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」とあります。試練に重い軽いがあるのではありません。私たちに試練を乗り越えられる力があるのでもありません。ただ主の恵みによって「耐えられるように脱出の道」が備えられています。
 ああ、何と今まで私は勘違いをしてきたのでしょう。試練がなくなるのが私への神さまのご配慮だとばっかり思っていました。でも本当は、私の神さまは試練とともにセットで脱出の道もちゃんとご用意してくださっていたのでした。人は生まれてきたその日から、いろんな試練を通って行きます。それはまるで絶えることのない波のようです。干満をくりかえして私たちに寄せてきます。イエス様の救いは、これらの試練をなくすものではありませんでした。そうではなくて、試練の中で生き抜いていけるものを備えてくださっていると信じます。
 「脱出の道」その道は、楽な道、楽しい道ではきっとないでしょう。でもそれだけが試練の中で耐えて生きていけるようにしてくれます。イエス様は「わたしが道である」と仰せになりました。試練とともに備えられる恵み、それはその中でしか、会うことのできないイエス様に会い、その大きな包容の中にいさせてもらっている自分を見つける幸いです。幸不幸を越えて存在する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人とはこのように逃げない人です。皆さん、人生の試練はあなたの罪や失敗に対する神からの懲らしめではありません。合格不合格を決める裁きでもふるいではありません。愛する者に、「こんな時でもわたしは、あなたの味方だ」というお方を味わい知るためにあります。どうかこれから生きることに恐れをなさずに、行きましょう。

2025年9月7日

「私はその罪人のかしらです」1テモテ1章15-17節、ローマ7章14-25節
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」


 天地の創造主の福音を伝えるのにふさわしい者とは一体どれほどの人格者でなければならないでしょうか。でも使徒パウロは自分を「罪人のかしら」であると明言しています。もし許されるのならこう言い換えてもいいのかもしれません。「福音を伝えるにふさわしいのは、最も罪深い者」となります。罪人のかしらが福音を宣べ伝え、罪人のかしらが大いなる主をあがめる、驚くばかりの恵みではありませんか。
 ひとつだけ忘れてならないのは、その者は自分は悪いことをしていると自覚しているだけではないのです。「私はイエス様の十字架を信じて救われているのに、こんなに罪深いのです」と知らされた人です。信仰を持ちながら「自分のしてることがわかりません」といっているパウロの告白を読んで見ましょう。ローマ7章は、救われたパウロ、福音を宣べ伝え、多くの教会を建てあげていった彼が自らのことを記しています。「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)。
 神さまを信じればもっと善を行えるような自分になれる、悪を行い続けるようではきっと救われていないのではないか、と思うかも知れません。いいえ、救われているからこそ、そう思いその事実に驚くのではないでしょうか。イエス様の十字架の福音を伝えるのにふさわしのは誰ですか。罪人かしらとは一体誰のことですか。そして、罪の力に抗えない自分を知っている者は誰ですか。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(7:24)と私たちは祈ったことがあるでしょうか。
 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(7:25)。自分はほんとうにみじめだと言ったばかりのパウロ、でもそのすぐ後で「ただ感謝します」と明らかにしました。これは開き直ったのでもなければ、取り繕っているのでもありません。感謝の源が、自分の善や行いではなかったのです。自分には全く感謝の原因がない、ただ、これだけの理由、それは主イエス・キリストだけなのです。自分のみじめさに倒されていませんか、こんなはずじゃなかったと失望していませんか。それだからこそ、私たちも「主イエス・キリストのゆえに感謝します」と神さまをあがめましょう。天地の栄光の主をあがめられるのは、あなたをおいて他にはいないのですから。
 

2025年8月31日

「失望に終わることはありません」ローマ5章1-5節
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」


 この夏の暑さの中で私たちはいつも「暑い暑い」と言いながら暮らしています。人間ほど耐えることが苦手な生きものは他にないでしょう。私たち人間は苦しさから抜け出そうと生きて来た歴史をもっています。それが発展とか成功とか言ってはいますが、「忍耐」できなくなっているのも事実です。聖書は「患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、練られた品性が希望を生みだす」とはっきり言っています。ですから、苦しさを避けてばかりいると、結果として希望も持ち得ないことになります。
 もし、私に信仰がなければ、言い換えれば「聖霊によって神の愛が私の心に注がれない」のなら苦しみは苦しみしか生まないと思います。忍耐や生きることの品(ひん)や希望など持ちようもありません。聖書には私たちが生きていくうえで大切なことは「イエス・キリストから目を離さない」と書かれています。では、イエス様は苦しんだときにどのように生きられたのでしょうか。
 マルコ14章36節を読んでみましょう。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」短いおことばですが、イエス様のお父様へ思いが溢れていると思うのです。「みこころのままに」と祈るクリスチャンはとても多くいるのではないでしょうか。でもその願いの中にはぬぐい切れない自己中心の思いが潜んでいるのも事実です。それでも神さまはこのような貧しい者の祈りさえ聞いてくれています。そのことを思うに、ただただ恐れ入る他ありません。もうそろそろ人生の苦しみから従順を学ぶべき時がきていると思います。
 イエス様の祈りは聞き入れられたと書かれていました。十字架から逃れるのではなく、まっすぐに進めるお気持ちになられtのでした。「わたしの願うことではなく、あなたのみこころをなさってください」とことばと思いが一致したのです。では私たちの場合はどうなのでしょうか。ピリピ4章6-7節です。「何も思い煩わなないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願うごとを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心を思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」どうか、私たちが御心のままにと感謝して祈れますように、みちびきがありますように。

​2025年8月24日

「生きることがキリスト」
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」 ピリピ1章21節


 使徒の働きの最初のころを読んでいると、ペテロたちは押しかけてきた病人を癒し、多くの驚くべきしるしを行いました。もし、奇跡や癒しがなかったら、きっとあんなに多くの人が福音に興味を示さなかったかもしれません。。
 私たちは、救いとはこのように、癒されること、改善さていくことと思う傾向があります。でも今の時代では、使徒はもはやおらず、どんな病も癒されるという奇跡もなくなっています。神さまの救いの御業はちっとも変わらないのですから、イエス様のくださる救い、永遠の命はどんなものなのかと改めて思います。
 病気になれば癒されることを誰しも願います。でも癒されない病気もありますから、救いは、病気や死を拒むのではなくて受容する人生態度を確立していくことだと思います。そういう態度は消極的に見えてしまうかもしれませんが、そもそも私たちはその命そのものを神さまからいただいているのですから、受容する生き方は神さまの望むすがたであると思うのです。
 病だけでなく。苦しい状態からの解放も救いといっていいのかしれません。けれど信仰がもたらしてくれる救いは、苦しい状態をこのままで良いと受け取れることです。そこには、その苦境の中に自分の生きる道を見いだしているといういさぎよさがあり、何よりも生きる充実感があります。
 イエス様は「神の国とその義を第一に求めなさい」と仰せになりました。私たちが衣食住のことで悩み、何とか生活を良いものにしたいと願い努めることをいけないとは言っておられません。けれどそれだけになっていないか、それが第一となっていないかと問うてくださったと思います。その根底には「あなたがたの天の父が鳥も花も生かして装っていてくれる」「花は花らしく、鳥はとりらしく生かしてくれている」のではないか。だとしたら「あなたがたにはさらに良くしてくれないわけがあるだろうか」と迫ってくださいました。私たちはこんな大きなお方のみこころの中に生かされていたのです。そのことに気づき納得して生きていけたらと思うのです。そしてこのような納得こそ「あなたがたの光」であり、その生き方が「あなたがたの良い行い」ではないでしょうか。
 パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言います。信仰は「信じる」だけでなく、「生きること」です。生きることがキリストですであり、死も生きること、いいえ生かされ、死なされるものだと強く感じます。もしそのことに感動して生きられたら、私たちは幸いな者と呼ばれるでしょう。
 

2025年8月17日

「いのちを見出す」 マタイ16章21-25節
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


 ペテロの言っていることは的を得ているように聞こえます。「イエス様のように愛とあわれみに満ちたお方は、良い報いをうけて当然です。十字架で殺されるなどあり得ない」というのです。でもイエス様は彼に「あなたは勘違いをしています」と強い口調で諭しました。
 今の現実を自分のしてきたことの結果だと早合点してしまうことが多い私たちです。良いことがあれば、自分の行いが良かったから、信仰深かったからと思い、逆に悪いことが起きれば、自分の失敗や罪・不信仰のせいでこうなってしまったと後悔するのです。それがいい悪いというのではなく、そこに神さまのことを思うことが欠けています。良いことがあれば高慢にならず感謝し、悪いことだらけでも卑屈にならずに「赦して」と祈りつつ生きられたらいいですね。あまり背負いこまないでください。
 イエス様はご自分を信じる者たち、全員に「ついて来なさい」と言ってくださいました。そこに何の差別もありません。 イエス様とともに行くには二つのことが求められます。「自分を捨てる」こと、「自分の十字架を負う」ことです。ここで大切なのは、最初から「自分を捨てて、自分の十字架を負って」いくことは誰もできないということです。思い描いていた道と現実の違いに落胆し逃げたくなりそうな自分に出会ってしまった、そんな者でなければ「自分を捨てる」ことは、分からないと思います。そしてキリストのために福音のためにと生きて来たのに「どうしてこんなことに」と思ってしまう自分を見せつけられた人でなければ、「自分の十字架を負う」ことの平安はわからないと思います。どちらも神さまの恵みなのですから。
 まことのいのちは、もうすでに信じるひとりひとりに与えられています。でも私たちが自分の思うように生きているので、まことのいのちに気づかず、生き損ねているのかも知れません。自分の思うように生きられることが幸せ、それを主は「いのちを救おうする」と表していると思います。自分の願いや思うようにならなくても、私は生きると自分の人生を負うこと、それを主は「自分の十字架を負う」=「わたしのためにいのちを失う」ことと仰っている気がします。ある人が言いました。「人が生きるということはどれだけのことをしたかではなくて、どれだけ自分の思い通りにあえて生きなかったかではかられるものと心得ましょう」と。つまらない人生など、ひとつもありません。私たちの人生はみな違います。それでいいのです。でもこの大きな違いの底深くに、「生きることが赦されている」というたったひとつの同じに気付けたら、その時私たちは天国を味わうでしょう。でも、違いだけにとらわれていたら、生きることは苦痛になってしまいます。どうか、まことのいのちを主とともに見いだしませんか。​

​2025年8月10日

「弱さのうちに完全に」 2コリント12章1-10節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


 誰でも困難や苦しみや悲しみは味わいたくはありません。パウロだってきっとそうだったに違いありません。ではなぜここでパウロは「弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難を喜んで受け入れます」と言いたかったのでしょうか。きっと、私たち人間はそのような窮地に立たされなくては自分の弱さに気付けないからです。自分が弱いとき、私たちクリスチャンは神に拠り頼み、初めて自分の信仰で見上げることになるのではないでしょうか。その自分だけの弱さに注がれる主のあわれみを感じるところなのですから。
 その恵みはパウロにとって十分であって、他の人には十分だったかわかりません。この主の尊いみことばは、この時のパウロに授けられたものです。私たちの生はひとりひとり皆、違います。だから私たちひとり一人への神さまのお働きもみな違っています。それでいいし、それだから感謝だと思います。目の痛みあってもパウロにとって主の恵みは十分だったのです。他の人には主は目を癒してその御力を完全にお示しになるでしょう。どれもこれもその恵みは十分なのです。恵みに決して不足はないと信じます。だから私たは他の人たちと自分を比べることはしないでいいのです。主の恵みはあの方にとっても十分であり、私にも十分なのです。
 この手紙を受け取ったコリントの町の教会の兄弟姉妹たちはあっけにとらわれたに違いありません。「何で自分の弱さなんて誇るんだ」という声が聞こえてきそうです。「キリストは私たちの弱さを改善して、少しでも強い人に変えてくださる」というのならまだ理解されるかもしれないのに。でもパウロだって誇りたいわけではありません。ではなぜ?それはコリントの兄弟姉妹たちがこの世の誇りに囚われていたのだと思いうのです。誇れるのは「強さ、尊敬、成功…」、これが世の常です。そんな誇りに心奪われていた彼らにパウロは言いたかった、「私は自分の弱さを誇る」と。
 クリスチャンは強くなるように導かれるのではなく、弱き自分に気づかされる方向に生かされています。そこに謙遜も祈りも感謝も平安も備えられているのです。「弱いときこそ、私は強い」それは弱さに向き合えるときこそ、私たちは強くされるのです。誰に?主キリストにです!ですから、逃げないようにしたいものです。ですから、強がってみせないようにしましょう。私もあなたにもキリスト・イエス様の恵みは十分であることを忘れないようにしましょう。

2025年8月3日

「きょう、救いがこの家に来ました」ルカ19章1-10節

「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。


 ザアカイ自身が抱いていた自分らしさ(セルフイメージ)は、きっとこれまで出会ってきた他の人たちからの評価でできあがっていました。「取税人のかしらで、金持ちで、背が低い」どれもマイナス負のイメージばかりです。私たちも例外ではありません。今まで他の人から下されてきた評価が自分の自己評価になっていないでしょうか。「あなたはこんな人」という外面でしか判断できない回りの人のイメージが私自身を作り上げています。それが重荷になり、卑屈にさせることはあっても、ハッピーにすることはほとんでありません。
 ザアカイはイエス様に関心をもっています。それはきっと外見ではなく、イエス様の心の内にあるものにひかれていたんだと思います。その思いがあまりに強くて、彼はこともあろうに、木にまで上ってイエス様を待ち構えていました。実はこの日、イエス様も大きな願いをお持ちでした。それは「エリコのザアカイに会いたい」という思いだったのです。人が主にお会いしたいと思う以上に、主はその人と交わりたいと願っておいでなのです。
 イエス様の方からザアカイに声をかけました。「ザアカイ きょうはあなたの家に泊まるから」。それを聞いたザアカイは大喜びでイエス様を家に迎えたのです。イエス様は「ザアカイ、わたしを受け入れなさい。そうすれば、わたしもあなたを受け入れよう」とは言いません。先ずイエス様の方でザアカイをそのままありのまま喜んで受け入れてくださっていたのです。ザアカイは自分を取税人のかしらで金持ちで背が低く嫌われ者、憎まれ者の自分をイエス様が受け入れて、泊まってくれることに本当に感激しました。初めて自分が自分であったことを喜んだにちがいありません。だからザアカイはこんな生き方をしたいんだと主に叫びました。私たちは自分ひとりで自分を受け入れることができません。誰か他の人にまるまる受け入れてもらったという経験をして初めて「自分らしく」なれるのです。ザアカイは救われました。
 近所の人たちは「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言って非難しました。でもイエス様はちっとも気にしていません。ザアカイの救い主、ザアカイの神になることを願ってこの町に来たのですから。「救い」それは、イエス様が私たちのいいえ、私ひとりの神となってくれることです。「信仰」それは、「私は私のままでよい」と自分自身を受けとることです。そしてそれはまことの神であるお方の切なる望みでもあるのです。感謝 ハレルヤ

2025年7月27日

「ふたりの祈り」 ルカ18章1-13節
取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「こんな罪人の私をあわれんでください。」


 神を信じる者たちにとって、この地上の生涯の最後の一瞬まで、神さまに失望しないで生きられたらどんなに幸せでしょう。でも現実は、主はその人を見捨てたりしないのに、人間のほうが神を捨てることがあり得るのかも知れません。そもそも祈りってどんなことでしょう。失望してしまう祈りがもしあるとしたら、それは祈りではなく、正直に自分の欲だったと認めることが必要なのかも知れません。
 イエス様は驚くことを言いました。「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と。信仰を祈りと置き換えても良いと思います。「ひとの子が来たとき、はたして地上に信仰=祈りが見られるでしょうか」。神さまと私たちとの関係を最も正直にあらわしてくれるもの、それが祈りです。祈りには私たち自身の信仰が反映されています。良い祈り、悪い祈りがあるのではありません。立派な祈りと貧しいお祈りがあるのでもありません。さあ、イエス様が私たちに教えてくれる祈りとはどんな祈りなのでしょうか。 
  「自分を義人だと自任(自慢)し他の人を見下している者たちに対して」と書かれています。祈りとは恐ろしいものですね。高慢な祈り、隣りで祈る人を見下す祈りがあるなんて、ショックなことです。受け入れてもらえなった祈り、それは「感謝」のことばでした。本当に驚くことです。感謝っていいものですし、感謝の祈りはささけられるべきです。でもこのパリサイ人の「感謝」は自分がしたことや取税人を見下した「感謝」だったのです。優越感の感謝、自負みたいなものです。私の感謝はこのパリサイ人のようではないかと自問しました。
 「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人。あれができたこんなことをした、それもきっといいでしょう。でも「祈り」という関係では、「私をあわれんでください」という心の叫びほど大切なものは他にはありません。言い換えれば「赦してください」「生かしてください」「守ってください」という祈りです。その祈りの源は「主はあわれみ深い方。そして私は罪深く心貧しい不敬虔な者」という自覚です。「私には何もありません、でも主は私を生かしてくださいます。私がみこころに従って生きられますようにあわれんでください。」と祈ります。「私の願いではなく、あなたのみこころがなされますように」そう祈る時、私たちは失望しません。祈りは聞かれるのです。

2025年7月20日

「熱心に待ちます」 ローマ8章15-25節
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」


 自分の信仰を省みることがあります。「これでいい」と思うときもあれば「なぜこんなにも弱いのか」と嘆きたくなることも多々あります。今日のみことばは、私に「信仰は待つこと」だと語ってくれます。聖書を思い出してみると、エジプトにくだったイスラエルは、約400年間という気が遠くなるほどの間待つことを強いられました。何世代もの間、目に見えるような救いの兆しすらなかったのです。でも彼らは何代にも渡って「救いを待ち望む」信仰を持ち、そして伝え続けのです。すぐにも神さまの御手が自分を救ってくれるはず、と思い込んでいる私にとっては驚きです。そしてその信仰は「神を恐れる」という土台のうえに建てられていたことに気づかされます。
 救いを待つ者の心から希望を奪うことのできるものは、ありません。神さまご自身がその信仰を待ち望む心を守っておいでだからです。でも何回も言いますが、多くのいいえ大部分の者は、救いを目にすることなく死んでいきました。「こんなに待ったのに」といって嘆きつぶやいても誰も責められる状況ではありません。でも彼らは「この状況は自分たちのせいではなく、主の御手のなされること」という「納得」があった気がします。平安はこの納得がもたらすものではないでしょうか。
 壮大な永遠を舞台にパウロは語っています。でも私はもう少し人間的な言い方しかできません。もしかしたらこの苦しみで別の希望が持てるかも知れない、という気持ちです。苦しみが涙と不平しか私にくれないのなら、絶対に苦しみたくはありません。でも、そうではないのです。「苦しい状態からの解放、それは確かに救いといってよいのですが、信仰が与えようとする救いは、それではないのです。真の救いは、苦しい状態をこのままで良いと受け取れることです。救いは自分がどのように受け取れるかであって、状況をむりやり変えることではなかったのです。
 イエス様はペテロたちに祈りを教えてくださいました。「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われるように…国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」と。どうか私の祈りが神さまの力でなく、平安を期待し待ち望むことでありますように。もうすでにここに備えられている平安を喜べますように。

​2025年7月13日

「だれが一番偉いのでしょうか」マタイ18章1-5節
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国は、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」


 どうしてもぬぐい切れないものがあります。それは「だれが一番偉いのだろう」「私はどれくらい認められているだろう」という思いです。もちろん「一番偉い」とまでは思いわないかも知れませんが、私たちは「認めてもらいたい」「私は必要とされてるだろうか」と思うのではないでしょうか。それは自分という存在の価値を与えてくれるように思えるからです。そしてその自分の価値は「何を持っているか」「何をすることできるか)」で決まってくるのがこの世なのです。
 この世界では弟子たちの質問は前向きに聞こえます。でも「天の御国では」言い換えれば、イエス様を信じる者たちの間ではとなると「だれが一番偉いか」と言う思いは、イエス様には見過ごすことのできないものでした。「厚い信仰を持った者」「わたしのためにすべてをささげることのできる者」と、もし、イエス様が仰せになったら、ペテロたちは納得したことでしょう。でもイエス様はそれを願っていません。だから、弟子たちにはまったく予想もできなかったことをされました。主は小さな子どもを真ん中にたたえたのです。「何ももっていない」「何もできない」小さなこどもをです。
 「悔い改めて子どものように」とは、子どものように無邪気になって、何事も疑わないで、素直になりなさいと言っているのでもないと思います。悔い改めて、とは「天の御国では、人は何かができる、できないではなく、また何かを持っている持っていないということで評価されません。天の御国では、その人がその人であることに価値があるのです」と認めることのようです。そのためにイエス様は小さな子どもを立たせたのでないでしょうか。天の御国では安心していいのです。何も持たずとも、何もできなくとも、あなたの存在は認められ、誰にも否定されたりさばかれたりされません。
 神さまはひとり一人を持っている持っていない、できるできないという視点で計ったりしません。あなたがあなたとしてここにいること、そのことの重さ、聖さをきっと喜んでおいでです。もちろん人として社会人として前向きになることは悪いことではありません。でもそこには平安と言う救いはないことも忘れないようにしたいものです。救いは何も持たずとも何もできずとも、神とともにある慰めを味わうことですから。人を評価し、自分をさばくような生き方から自由になりませんか。イエス様を信じることは救いです。決して誰が一番偉いかと競うものではありません。安心してください。

​2025年7月6日

「死で終わるだけのものではありません」 ヨハネ11章
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」


 ラザロの姉たちは弟のことをイエス様に伝言しました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。「すぐに着て癒してください」という気持ちを少し控えめに託しました。「きっと主は来てくれる」という期待以上の確信があったに違いありません。愛する者が困っている時に見捨てるようなお方ではない、必ずどんな重い病も主の御手に癒せないものはない、姉妹たちは疑うことなく待っていました
 姉妹たちはイエス様が来られるのを待っていたでしょう。でも一日、二日、三日たっても主の姿はありません。帰って来た使いはこんなことを言ったのです。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものですと。姉妹たちはそれを聞いてどう思い感じてでしょうか。「何を言っているのですか」「神の栄光って何ですか」という思いが膨らみます。そしてついに弟ラザロは息を引き取って、葬式も済み、墓の中への葬りを終わってしまったのです。「主は来なかった。なぜ」ふたりだけでなく多くの人が期待から一転して疑いと絶望に沈んでしまったとしても不思議ではありません。
 一方で、イエス様は「わたしはラザロを眠りからさましに行くのです」言い換えれば、「ラザロはわたしが来て、眠りから覚ましてくれるのを待っている」と言ったのです。「眠り」は「睡眠のことではありません。死んでいる死んでしまっていることを言っています。不思議ですね。イエス様は死を眠りと言ったのです。これは「死は終わりではなく、覚めるときがくる」という慰めの意味と同時に、「人が恐れている死でさえもその手に握っておられる方がいる」という厳粛なメッセージなのではないでしょうか。
 姉妹たちふたりはそろって同じことばをイエス様に言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の弟は死ななかったでしょうに」。イエス様はそう言って泣く彼女たちを見て、心を震わせ涙を流されました。「盲人の目をあけた方でも、死にはどうしようもなかったのか」。墓の前で人々のことばを静かにお聞きになった主は「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」と言って、大声で叫ばれたのです。「ラザロよ。出て来なさい」と。ラザロは出て来ました、マルタもマリヤも驚きとそれにまさる喜びに満たされたに違いありません。私たちはイエス様を信じています。でもそれは自分の思いの範囲内でのことです。決して姉妹たちは不信仰だったとか言えません。彼女たちも信じていたのです。でも主イエスがされることは、私たちには想像もできないことです。だから「自分の信じていたとおりにならなかった」と気落ちしなくてもいいのです。いつも主のなさることはあわれみに満ち、受けるに価しないのにくださる恵みなのです。ああイエス様が私たちの主でよかったと思いませんか。​​

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