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「福音は届いていますか」
​藤木正三・工藤信夫 著より

「教える者から忍ぶ者へ」
間違っておればそれを教えてあげるのが親切ですが、その場合相手の間違いに苛立ち、自分との違いに耐えられず、自分の考えに相手を従わせて満足しようとする心に走りやすいものです。しかし、教えることが本当に相手の為なら、そこで満足するのは相手であって自分であってはならない筈ですから、自分の満足を求めるような心がいささかでもあるなら、それはお節介だと自戒しましょう。いちいち間違いを取り上げて教えるよりは、それを忍ぶ者となるように自分をこそ教えたいものです。

「信仰の薄さ、厚さ」
信仰が薄いとはどういうことなのでしょう。信じ抜けない忍耐のなさでしょうか。熱したり冷めたりする気まぐれのことでしょうか。それなら忍耐強くひたすら神の力を待ち望めば、信仰が厚いということになるでしょうが、そうではないのです。信仰の薄さは、神に力を期待すること自体にあります。そういう期待には、自分の願いの成就のために神の力を利用しようとする思いが必ず潜むからです。厚い信仰は神に力を期待しません。平安を期待します。いかなる時にも、そこに既に用意されている神の平安を求め、それを喜ぼうとします。

「神の​前」

人の罪だけ見ている時は、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして、自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています。その際自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、まだ神の前に立ってはいないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから。

​「人生の色」

誠実、無欲、色でいえば真白な人、不実、貪欲、色でいえば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分けは一人の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ動いているのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同士の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。​

「今が一番良い」

もっと別の人生が送れると思っていたのに、たとえばこういった、思い込んでいた私と実際の今の私の食い違いが私たちを苦しめます。もしそこで「今が一番良い」と言われたら、目が覚めるような安堵を味わうでしょう。宗教の慰めはこの手のものです。だから宗教は、社会の矛盾に目をつむるなどと批判されたりもするのです。信じない人がそう批判するのなら甘んじましょう。確かにそうなのですから。しかし、信じる人がそう言うのならその信仰に神の希薄さを感じます。宗教は、神の濃厚の故に「今が一番良い」と今を納得することと違うのですか。

「あらねばならぬ」
欠点のない人はいません。そして、容易に直らないのが欠点です。直らないからといって、自分を責めても、人を責めても疲れるだけです。こうあらねばならぬと自分に注文をつけて欠点のない自分を追い求める前に、欠点のある自分をそのままに受け入れましょう。こうあらねばならぬと相手に注文をつけて欠点のない相手を期待する前に、欠点のある相手をそのままに受け入れましょう。あらねばならぬと構えるのは真面目かも知れませんが人生を勘違いしています。人生はそのまま受け入れて良いように既にゆるされたものです。

「私の神!」
神はひとりびとりの生に立ち入り、時にさばき、時に慰め、時に励まし、時に強制するなど、働きかけて下さる方でしょう。ところで、そのひとりびとりの生は全く違うのですから、神はそれぞれの人にとって、その人にだけ納得できるように働きかけていて下さるといえましょう。つまり、神はひとりびとりにとって、その人だけの神となって下さるのです。神ご自身、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、いわれました。神を「私の神!」と人が呼ぶのは、決して独善ではありません。神のご希望であります。

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