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 イエスは答えて言われた。

「『人はパンだけで生きるのではなく、

 神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

                新約聖書マタイの福音書 4章4節

4月22日(月)

ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚(よ)りの糸は簡単には切れない。

                    伝道者4章9節 

ひとりのほうがいいと思うかもしれない、気楽に自由に過ごせるから。でもふたりでいるからそう思っているだけで、もしひとりぼっちになったら寂しいにきまっている。私たちは楽になるためにふたりでいるのではありません、ともに互いの弱さ重荷を負い合って労苦するためにいるのです。そう感じます。

4月23日(火)

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

                   ヨハネ16章31節 

勝つ、それはきっと相手を負かすことではありません。一切をみこころと受け入れて、えり好みせず、主が私に備えてくださったものと引き受られること。いかなる時もそう信じて生きるのが勇敢だと思います。

4月24日(水)

ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です…もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

               1コリント12章12、26節 

ともに苦しむから、喜びも自分のことのように嬉しいのです。だからどんな時でもありのままの自分でいましょう。教会はイエス様のからだ、主の血が通うところです。たとえ離れていても会えなくても、その恵みでつながっています。あなたの苦しみも喜びも分かち合える、そんな私でありたいと願います。

4月25日(木)

主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました…イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。

                  ヨシュア14章7節 

いろんな事があった四十五年でした。私たちの人生も同じではないでしょうか。どうか主なる神さまが、私を今日まで生かしてくださったという思いを持てますように。その思い、その眼差しで今日を明日も見られますように。

4月26日(金

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

                   ピリピ4章12節 

パウロは決してひとりで頑張れたのではありません。困難を分け合ってくれた仲間がいたのです。神さまはこのように私たちが困難さえも分けあい乗り切っていけるようにと信仰の家族に入れてくださいました。その真ん中にイエス様がおられみんなを見守りとりなしてくださっています、感謝します。

4月20日(土)

「わが子よ。主の懲(こ)らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」…霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです…すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

               へブル12章5、10、14節 

すべてのことは偶然やなりゆきではありません。たとえ私たちの罪が原因であっても、神さまのご意志がそこにあります。どうか主の御前にひざをかがめ手を合わせて、赦しを請うことができますように。そこに私たち罪深い者たちがきよめられる道があると信じます。

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