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 イエスは答えて言われた。

「『人はパンだけで生きるのではなく、

 神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

                新約聖書マタイの福音書 4章4節

6月30日(月)

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

                     詩篇3篇3節 

眠ってめをさますことは当たり前のことではありません。一日を生きて新しい次の日のために、私たちは眠ります。そして主が備えてくださったきれいで誰も踏み入れていないまっさらな日を迎えます。もう昨日は過ぎ去りました、さあこの日を感謝して生きていきましょう。今日も主がささえてくださるから。

7月1日(火)

 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。…ただ主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。

                 1サムエル12章23節 

神さまがいてくださるのに、イスラエルは人間の王を求めました。それは大いに御心をそこなうことでしたが主は民の願いを聞いたのです。自分の願いが聞き入れられたのに、それが罪だったと民は分かったのでした。神さまはそんな民をあえて、引き続きご自分のものとして導こうとされます。それは人々のためでなく、ご自身の偉大な御名のためと記されています。大いなる方のあわれみに今日も包まれていることが感じられますように。

7月2日(水)

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

                  2コリント3章17節 

イエス様と同じようになっていく、そんなことがこの私に起こるなんて信じられないことです。でも一切は主の恵みのですから、きっとそうしてくださるでしょう。忘れてはいけないのは、その姿はきっと私が望むものとは違うということ。イエス様が十字架に進まれたように、私も同じ道を行き同じかたちに変えられていきます。私の願いではなく、主の私へのみこころがなりますように。

6月26日(木)

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

                   マルコ1章35節 

では私は何のために生きているのかと思う。いろいろ思い浮かぶことはあるけれどわからないというのが本音です。でもわからなくても生きる、生きていくことそのことがイエス様が私にくださったことです。だから、くさらずに焦らずに思い上がらないように、今日を大切に生きていきます。

6月27日(金

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。…私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

                    詩篇18篇2節 

あの巨人ゴリアテを前にしてもひるがなかったダビデが、今は弱り疲れ果てています。でも主はいつでもダビデのどんな祈りも聞いてくださっていました。自分の声を神さまは聞いてくださる、それだけでも喜びでした。祈りが聞かれる、それは自分の願いがかなえられるということでなくてもいいのではないかと思います。私の声が主の耳に届いた、ただそれだけで安らぐことができれば、それは聞かれたのです。これ以上の幸いは他にはありません。

6月28日(土)

群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

                    使徒16章22節 

まるでそこが教会のようです。いいえ、神を信じるふたりがいれば、そこにイエス様もおられます。主のいるところ、そこが礼拝の場だと信じます。どうか私たちの生きるところが、主をあがめる場になりますように。

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